吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

DAF吃音を体験して考えたこと

私は日頃は団地や身辺の雑事に追われており、吃音のことをまったく考えていない。
人と話す時も吃音を意識していない。
すると自然に「吃音ノート」のことはどこかに消し飛んでしまう。
また、記事を書く以上はなるべく文献を読んでおきたいと思うと、書くのが億劫になる。
それで、むずかしく考えずに、記憶していること、思っていることを書こうと思う。
もともとそういうつもりでブログを始めたが、ついむずかしく考えてしまう。

私がDAFを体験したのは今から46~47年ほど前。
知人が言葉の教室の先生?あるいは言語聴覚士?のところにあるDAF装置を使わせてくれた。
それは職人的な努力でテープデッキに遅延装置をとりつけたものだった。
自分が発した音声が遅れてヘッドフォーンから聞こえる。

ここで簡略にDAFについて説明する。
DAFはDelayed Auditory Feedbackの略で、遅れた聴覚情報のフィードバック、いい換えると聴覚情報が遅れて知覚されることである。
1950年、Bernard S LeeがDAFの条件下では吃音のような話し方になるという論文を発表した。
この論文は注目され、DAFに関する研究が盛んになった。
そして吃音者には内在的な聴覚の遅れがあり、それで吃るようになるのではないかという見方がでた。
また、DAFによって吃音者の吃音が減少する場合があることも観察されたことから、DAFを吃音治療に用いようとする考え方も生まれた。

DAFによって発生する吃音をDAF吃音と呼ぶ。

まず、私はDAFを体験する前に吃音をどう考えていたかを書く。
吃音は失敗をきっかけに起きると考えていた。
吃音は失敗を訂正しようとして再び失敗するために訂正が累乗的に重なっていく現象ではないかと考えていた。
しかし後でその考えを否定するようになった。
それは吃音を直接的に引き起こす脳の部位は発話運動の遂行を高速で微調整している部位、最終出力を微調整している部位であって、発話のやり直しや再プログラミングの役割はもっていないと考えるようになったから。
また、伸発は失敗を訂正しようとして累乗的に訂正が重なっているものではなくて、たんに遂行中の運動がそのまま継続しているに過ぎないと思われたから。
ただし私は今も吃音は失敗をきっかけに発生すると考えている。
が、今の私は吃音は失敗を訂正しようとする反応ではないと考えている。
次に、吃音は反射的自動的に起きると考えていた。
少なくとも連発と伸発はそうだと考えていた。
もっと後になって難発も反射的自動的に起きると考えるようになった。
難発時に無理に発音すると連発様あるいは伸発様の発音になることがある。
それらは努力性を伴っており、反射的自動的ではない。
それらは難発から2次的に発生した発音であって、本来の反射的自動的な連発や伸発とは区別すべきだと思っている。
私は今も吃音は反射的自動的に起きると考えている。
連発も伸発も難発も、今遂行した運動が反射的自動的に継続する(あるいは繰り返される)という単純なものだが、私たちはとかくそれに抗う努力などを含む複合的なものを吃音として見ているのだろうと思っている。
なお、吃音は恐怖心で強化された条件反射の回路が形成されることで反射的に起きるという見方があるようだ。
私は恐怖心は吃音の必要条件ではないと思っているので、そういう見方はしない。
吃音は誰にも起きうる問題と考えているから、吃音は誰にも備わっている機構によって反射的自動的に起きると考える。
新たな条件反射の回路を仮定する必要はないと考える。

前置きはこれくらいにして、まず私は遅れ時間を0.15秒?くらいに設定して実験を開始した。
?がつくのは、はっきり覚えていないから。
しかし文献は少し読んでいたから、大体の見当はつけていた。
遅れ時間をいろいろ変えて実験したから、大体の遅れ時間は覚えている。
DAF装置を装着し、いろいろ思いつく言葉を発音してみた。
最初はDAFによる影響は出なかった。
しかしヘッドフォーンから出る音量を上げていくと、ついに連発が出始めた。
その音量はこの実験を続けると難聴になるのではないかと心配になるレベルだった。
骨伝導を打ち消すほどの音量がないと、DAFの影響は出ないといわれている。
DAFによって発生した連発は驚くほどに反射的自動的だった。
それをどんなに食い止めようとしても、食い止めることはできなかった。
遅れ時間を0.13秒とか0.18秒に設定しても、反射的自動的な連発が起き、それを食い止めるのはむずかしかった。
一方、遅れ時間を0.08秒とか0.25秒に設定すると、連発は発生しなかった。
DAFによる吃音では遅れ時間の大小が重大な意味をもっていると思われた。

DAFによる私の実験では、伸発や難発は発生しなかった。
DAFの影響で話しづらい時、口ごもることはあった。
私が日頃経験している難発と照らし合わせると、それは難発ではなくて、ただの口ごもりであると思われた。
DAFの条件下では、サ行音は連発になった。
/sa/が繰り返された。
通常、私はサ行音では伸発になり、/s/が引き伸ばされる。
決して連発にならない。
だからDAFによる吃音は特殊であって、通常の吃音ではないと思われた。

しかしDAF吃音は吃音の一種であると思われた。
そう見なす確定的な根拠はないが、私はもともと吃音はある失敗をきっかけに起きると考えており、DAFによる吃音はそれに合致すると思われた。
DAFによる吃音はDAFによって人為的に作り出された失敗をきっかけに起きていると思われる。
失敗を失敗と判断するには、何らかの基準があり、それと照らし合わせて失敗と判断するのだろう。
吃音を引き起こす脳の部位は一種のメトロノームのような装置を備えており、それと照らし合わせて失敗を判断するように思われる。
その基準について考えるのはむずかしい。
が、ともかく私は話す時の筋運動感覚と聴感覚との間に重大なズレが起きた時、それが失敗と判断されることでDAF吃音が発生するのではないかと想像した。
また私はもともと吃音は反射的自動的に起きると考えており、DAFによる吃音にもそれが明確に現れているから吃音の一種といってもよいのではないかと思った。

DAFには吃音を減少させる固有の効果があるのかについては、私は否定的だった。
たとえば遅れ時間を0.08秒にしたり、0.25秒にした時、私は話しづらさを感じ、聴覚情報を無視し、筋運動感覚に依拠して話すようになった。
この時、吃音は少し減少したようにも思われたが、私はそれをマスキング効果だと思った。
自分の声が自分に聞こえないように雑音を流して話すと、吃音は劇的に減少する。
それをマスキング効果と呼んでいる。
私の解釈では、雑音で自分の話す声がかき消される時、筋運動感覚に依拠して話すようになるが、その時、吃音は劇的に減少する。
DAFによる吃音の減少は、DAFの遅れ時間がどうのこうのという問題ではなく、たんにマスキング効果の一種に過ぎないと思った。

DAF吃音の研究は、吃音者には内在的な聴覚的遅れがあるのではないかという疑問、あるいはDAFによって吃音を治療しようとする方向に向かったが、やがて廃れていった。
私はDAFによって示された吃音の反射的自動的機構をこそ知りたいと思ったが、DAF研究はその方向に進まなかった。
DAF吃音は吃音を引き起こす反射的自動的機構が時間制御と深くかかわっていることを示唆しているように思われるが、DAF研究はその方向に進まなかった。
DAF研究の意義は矮小化されたが故に、廃れるべくして廃れていったように私には見える。

発話運動には一定の定速性がある。
通常の発話では1モーラの継続時間はほぼ0.15~0.2秒である。
私たちはそれを意識的に制御している訳ではないので、それを制御している自動機構があると思われる。
誰にも備わっているその自動機構が吃音を引き起こすと私は推測しているが、そのひとつの根拠はDAF吃音にあると思っている。
DAF吃音は人工的な吃音であって通常の吃音ではないが、聴覚的遅れがなくても、発話の過程である運動要素が欠落しているような場合、見方によってはある時間枠の中でその運動要素が遅れているのと同じことになる。
聴覚的遅れがなくても、運動要素の欠落などがあれば、吃音は起きうるし、それこそが通常の吃音だろうと思う。
私は吃音者には内在的な聴覚の遅れはないだろうと思っている。
私の推測でしかないが、脳の最終出力段階で発話の遂行を時間制御している脳の正常な部位がある失敗を感知した時、吃音を引き起こす。
脳のその部位はやや過敏すぎるかも知れないが、異常であるとは考えない。
正常であっても何ら差し支えない。
で、吃音のきっかけになる失敗は筋肉や神経や脳のさまざまな部位に由来しうる。
その原因を一律にいうことはできない。
たとえば大脳基底核に失敗の原因がある場合もあるといっても構わないが、吃音のきっかけになる失敗はすべて大脳基底核に原因があるとはいえないと思う。
私は口蓋裂から派生していると思われる吃音を見たことがある。
また、大脳基底核が直接的に吃音を引き起こすとは私は考えない。

このブログは吃音を考えることをテーマにしてスタートしたが、そのように範囲を限定すると、私の今の生活ではなかなかブログを更新できない。
それで、テーマをひとつ増やし、健康にかかわる記事も書こうかと今思っている。

私にとって懐かしい曲を入れる。
あまり聴く機会のない曲を入れたい。

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GENE PITNEY - teardrop by teardrop

ルイジアナ・ママが有名だが、私はteardrop by teardropも好きだった。
ちょっと女々しくはあるが、今聴いてみると、やはり好きだ。

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燃ゆる想い / ジャミー・クー

中学時代にラジオから流れていた。
地味な曲だが、好きだった。

 

追記

私は発話運動は基本的にはフィードフォワード制御される運動だと思っている。
発話運動のフィードフォワード制御とは、一息で話す範囲の文や句の語頭から末尾にいたるまでの全体をなめらかに展開しうるようにあらかじめ整えてからスタートするような制御の仕方だと思っている。
その整えは語頭の音が発せられる以前にスタートするが、整えができなければ口ごもったり、難発になったりすると思っている。
吃音者はとかく語頭の音だけを意識するが、それは末尾にいたるまでの全体をなめらかに展開しうるように整えることに失敗している状態であり、難発を招くと思う。

運動を継続したまま運動の誤差を修正するフィードバック制御が可能ならば、そもそも吃音は起きないと思う。
DAF吃音によって、フィードバック情報が発話運動に影響を与えることは認めうるが、それで首尾よく失敗を補正するように制御できるかというと、できない。
制御できないからDAF吃音が発生するのだ。
発話運動を自動制御する機構は脳内にあると思うが、それは基本的にはフィードフォワード制御機構だと思う。

しかしDAF吃音はよくわからない。
これは確認していないが、発音する最初の部分は骨伝導で聞こえているはずだが、その時点ではヘッドフォーンからまだ自分の声は聞こえておらず、遅れてヘッドフォーンから自分の声が聞こえるので、その時間的ズレで混乱が起きるためにDAF吃音が発生するのではないかという見方があったように記憶する。
発音する最初の部分は骨伝導で聞こえていたのかどうか?私は覚えていない。
聞こえていなかったような気がするが、定かでない。
聴覚的遅れが0.15秒ならDAF吃音が発生し、0.25秒ならDAF吃音は発生しないのは何故だろう?

 

 

吃音は恥ずかしいことか、情けないことか?(3)

私は吃音は恥ずかしい、情けないという感情・考えをほとんどもたない。
これは私の個人的資質も関係しているかも知れない。
それもちょっと書かせていただくが、生き恥の多い人生をさらすようなことなので、差支えのないように書く。
苦しんでいる吃音者に訴えたいことがあるので、脱線気味のまとまりのない文章になると思う。

幼少期

親の話しでは、私は3歳頃に左利き矯正のために左手を縛られ、それから吃りだした。
幼少期の記憶は少ないが、私はあまり話さない子供だった。
親に甘えない子供だった。
自分は愛される資格のない子供だと思っていた。
私は家庭内でうちとけた関係を築くことなく成長した。
これは私の個人的資質の根底にあるのだろう。

私は右半身だけ病的にくすぐったがる。
左半身は大丈夫だ。
この病的なくすぐったがりのため、床屋に行かないし、満員電車に乗るのを嫌がるし、健康診断の時も困る。
これは幼少期の強引な利き手矯正の後遺症ではないかと疑っている。
年少の頃は左右の足の踏み出しのリズムが取れず、跛行気味に歩くこともあった。
基本的には私は左利きのままではないかと思う。
身体全体のバランスを要する動作では左利きである。

小学~大学まで

小学ではやんちゃにふるまうようになった。
家庭でのふるまいとはギャップがあった。
私は先生から「どうして家では親に甘えないの?」と叱られたことがある。
母が先生に相談したらしい。

私は吃音でバカにされたり、いじめを受けたりしたことがない。
小学時代、音読で吃っても気にしなかった。
それは自分はクラスで受け入れられているという意識があったからだろう。
そのうちに勉強がおもしろくなり、頭でっかちなタイプと見られるようになり、不器用さは大目に見られた感があった。
友達はたくさんいた。
しかし役員に選ばれ、難発で立ち往生してから、役員に選ばれないようにふるまうようになった。
勉強を避けるようになった。
この時、吃音は情けないと思った。

中学、高校時代、やはり役員に選ばれないようにふるまった。
そして落ちこぼれ同然となったが、それでも友達は少なからずいた。
まじめなタイプとも悪っぽいタイプとも親しかった。

私は本来は社交的なタイプでないと思う。
それなのに何故友達に恵まれたのかと思うが、正直さや独自性があったせいかも知れない。
当時、洋楽に熱中していたが、洋楽にうるさかった。

中学の時、母が亡くなった。
私を心配した先生が「日記を書け」と強い口調でいったので、日記を書くようになった。
以来、日記を半世紀以上書いている。
私は日記を書くことで自分の考えを整理し、その後の困難を乗り切ってきたと思う。
今まで生きてこれたのは日記のおかげだと思っている。
日記をつづける秘訣は、自分に甘すぎず、厳しすぎず、バランスを保った書き方をすることだと思う。
人にそういうバランスをもって接するなら、よい交友関係が生まれるだろう。
日記を書くことは自分を自分のよき友にすることである。
書くことがなければ1行でもよい。
完璧を求めるとつづかない。

当時から、私は吃音は精神的な理由で起きるとはあまり考えていなかったと思う。
それは自分はどちらかというと冷静なタイプと思っていたからだ。
昔は理科少年だったが、因果関係を物質的に考える素地があるかも知れない。

やがて何とか大学に入り、過去を反省し、クラスの自治会委員に立候補した。
クラスで議長を務めたが、吃音を公言し、難発で言葉がでない時は黒板に書きながらゆっくり発音した。
吃っても平然としていた。
何故、平然としていたのかと考えてみると、いくつか思い当たる。

まず、私は非生産的なことを嫌う。
問題があれば考えて解決すればよいのであって、悩むこと自体は下らないと見なしていた。
当時、私は行動的だったが、あなたは弱者の気持ちがわからないといわれたことがある。
もともと愚痴をいわないが、それは愚痴をいうのは無駄事と見なすからだ。
ある人に腹がたって仕方がない時は、ああいう馬鹿のために自分の精神状態を損なうのは馬鹿馬鹿しいと考える。
こういう一種の合理主義的?なところがある。

人の目をあまり気にしない。
これは吃音が関係していると思うが、幼少期から人の相互理解をあまり期待していない。
誤解・無理解が世の常態だと思っている。
集団への帰属意識はさほど強くない。
自分は自分と考える。
しょせん孤独と思っている。
人との関係に固執しない。
ただしざっくばらんなところもあり、人には普通に応対する。

また、自分の人生を顧みて、仏教の「空」という考えに共鳴するようになった。
それは仏教を信じることではなくて、世界観の問題である。
私がこのようになったことにはいろいろな事情が絡んでいる。
私の内部にも私の環境にも私が知りえない無数の事情がある。
これを深く考えていくと、私が私である根拠を私の中に認めることができなくなる。
とはいっても私の責任がまったくないとはいえない。
しかし、ここからここまでが私の責任だという境界線は引けない。
こういう矛盾を含んだ考えが私が理解しているつもりの「空」である。
「空」という考えから、成功したものは己惚れてはいけないし、失敗したものは卑下してはならないという考えがでてくる。
罪を憎んで人を憎まずという考えもでてくる。
この考えは私に心のゆとりをもたらしてくれていると思う。

大学中退とそれ以降

私の人生は変化に富んでいる。
その後、自分の進むべき道がわからず、悩むようになった。
重度の吃音があり、若い時期から自分を抑圧してしまったから、取り柄がない。
かつ子供の頃から不眠症があり、大学時代は不眠症が深刻だった。
眠れない日がつづくと精神状態が悪化し、自殺願望にとりつかれてしまう。
思うに任せないわが人生が思い起こされ、無力感と厭世感がひどくなり、朝に起きられなくなる。
大学を中退し、それからいろいろあった。
言友会という吃音者のセルフヘルプグループに入会していた時期もあった。
やがて零細な工場に入って機械を扱うようになったが、眠れない日がつづくと精神状態が一気に悪化し、自殺願望にとりつかれ、無断欠勤する。
前日に同僚と談笑していても、そうなる
こうして、転職を重ねた。
転職により、いろいろな人と職場を見てきた。

やがて、それまで避けていた睡眠薬に助けを求め、それで眠りを確保するようになった。
また、認知療法や人生訓などの本、大野裕之新渡戸稲造ナサニエル・ブランデン、竹内均、篠木満、櫻木健吉、中村天風、平澤興などを読んだ。
しかし読むだけでは駄目で、具体的に日頃の自分の考え方を修正していかなければならない。
修正すべき自分の考え方にも一面の真理があるから、それをも包括する合理性のある考え方を身につけていかなければならない。
さらに思い切って仕事も変え、生活環境を変えた。
これでほぼ心の病から脱却したようだ。
私の心の病は人生経緯による無力感や厭世観の影響もあるが、多分に不眠症によるものである。

苦しい時期に得たことは、簡単には言葉にできないが、それとなく生きる支えになっていると思う。
私はちょっとやそっとのことでは動揺しなくなった気がする。
空気や水のような当たり前なものこそはありがたいと思うようになった。
道は近きにあり。
泣くも一生、笑うも一生。
ありきたりな言葉だが、そう思う。
ものは考えようで、人生に無駄なことはない。
しかし考えようによっては無駄になる。
塞翁が馬。
目先のことで一喜一憂せず、一歩一歩の歩みを実感すること。
心に残る言葉をノートにいろいろ書きとめていたが、少しここにも書いておこう。

“できると信じなさい。そうすれば建設的に考え始める”
“道はある。これしかないと思わない。解決の道は必ずある”
“どういう結果になってもやっていけるというような心のもち方ができるかということ”
“他人に依存するから不安になる。自立すること”
”過去や他人の意志などは自分のコントロールの範囲外のことであり、そういうことを思い煩うと、自己有能感を損なう。自分のコントロールの及ぶ範囲内に集中してこそ、自己有能感を高めることになる”
”相手を世間一般と思うと、相手は化け物に見えてくる。相手と一対一で差しで勝負していくつもりで対応すること”
“落ち着いた人になることである。落ち着くとは神経質にならず、伸び伸びとやることができるようになることである”
“困難にぶつかって過剰反応することでさらに問題をむずかしくすることは、よくあることである”
“広い視野で見ると、弱点自体はそれほどの弱点ではない場合が多い。弱点を隠そうとする守りの姿勢がむしろ弱点になっている”
“自負心のある人は自分自身と闘っていないので、言葉や動きは自然に楽に出てくる。その言説と態度、動きが調和している”
“満ち足りた人となるには誇りをもつこと。それは何も特別なことではない。人との約束を守る。人の悪口をいわない。 夢をもって前向きに生きる。自分に恥じることがないこと”
“人生の奥義の9割は快活な精神と勤勉にある”
“何でも好きになるのが一番”
“人間関係の基盤はおおらかさにある”
“考え方が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば心が変わる。心が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる”
“常に改造が必要である。棄てておいて永持のするものは一つもない”
“やらなければならない嫌なことがある時、それを避けていると、嫌な思いを引きずるだけでなく、自分が自覚する以上に自分を傷つけている”
“小課題を設定し、達成感をもつ”
“仕事を始める時は気が乗らなくても機械的に始める。しばらく続けてマンネリ化してきたら中断し、別の仕事に向かう。切り替えが大事”
“ストップウォッチを手元におき、15~20分を単位として課題に取り組む”
“本当の思いやりは相手に生きる勇気を起こさせる”
“私がいることが誰かの幸福につながっている。そう思える人をなるべくたくさんもつこと”
“自分が生きていることがただ一人の人間に対してプラスになるのであれば、自分は無価値ではない。その一人の人間とは自分自身であるとしても、同じことである”
“人生の目的は一歩づつの過程を楽しみながら、愛情のある暮らしを送ることである”
“小さな喜びを積み重ねていくことが自分をいつも幸福な状態にする基本である。人生の大部分は小さなことの積み重ねである”
“毎朝、楽しいことを期待して起きられるか”
“今日は明日の何倍もの値打ちがある”
“人生とは一日一日のことである”
“朝には希望と張りあいをもって仕事をはじめ、夕には充足感をもって仕事を終える。感謝をもって緊張をときほぐし、静かに喜びながら萬物を拝む気持ちになることです”

今も睡眠薬は欠かせないが、眠りは何とか確保している。
吃音は軽くなった。
貧乏だが、かつてなかったような穏やかな生活を送っている。

吃音は情けないことか

吃音を恥じないとしても、吃音は情けないと思うことはあるかも知れない。
私も、吃音がひどかった頃、子供がいとも簡単に「お早うございます」といっているのに、自分はそんな簡単なことすらできない、情けないと思った。
吃音がひどい場合はそう思うのは無理もないところがあるが、しかし吃音は一種の障害だから、仕方ないと私は考える。
障害があることで私自身を際限なく責め、傷めつけ、それでどうなるというのだろう?
他人はそんなに私を責め続けるだろうか?
自分こそは自分の最良の友でなければならないのに、自分が自分を弱らせる最悪の敵になるというのは、愚行の最たるものではないか?
自分にできないことを嘆くより、自分にできることを伸ばすことを心がけるべきだろう。

私は子供にできない多くのことができるし、多くのことを知っている。
また私にしかできないこともあるだろう。
自分の独自性をはぐくむことは大事だと思う。

治す努力の否定、治す努力

以前に少し触れたが、20代後半、吃音者のセルフヘルプグループ「言友会」に加入していた。
加入する少し前、私は「治す努力の否定」という考え方を知った。
それは、吃音があってもできることはあるのに、吃音を言い訳にしてできることもせず、ただただ吃音が治った暁を夢見て治す努力を続けるというあり方を批判する考え方である。
まずは今ある吃音を受け入れて生きてみようという考え方である。
吃っても、人としてなすべきことはしようということでもあると思う。
私はこの考えに賛成である。

インターネットで若い吃音者の悩みを見ると、何でも吃音のせいにし過ぎていないか?と思うことがある。
吃音を隠そうとすると、どうしてもぎこちなくなる。
ぎこちなさはすぐに相手に伝わってしまう。
吃ってもいいから、自分を正直に出す方が好感をもたれると思う。

若い頃、ジョギングしている人から「おはようございます」と声をかけられたことがあった。
私は返事できなかった。
その人はちょっと悲しい顔をした。
それでその人を追いかけ、吃りながら、言葉がスムーズにでないことを話した。
その人は了解した。
吃音があるから何もできないということはない。
声がでないなら、筆談でもよい。
私は筆談で自分の意思を伝えたことが何度もある。

インターネットで就職の悩みもよく見る。
昔、私は面接で吃音があることを最初から伝えたし、筆談したこともあった。
吃ったらどうしようではなく、吃ることは確実だから、それを踏まえて対策をたてた。
製造の仕事についたが、それは吃音も一因だが、もともと自然にかかわる仕事、もしくは製造の仕事が好きだからだ。
仕事の現場に潜むいろいろな問題をことさらにひねり出し、自宅で寝食を惜しむほどに熱中して考えたことがある。
私は私しか扱えない機械を扱っていたし、同僚を手助けすることもあった。
吃音者はよくコミュ障を気にするが、仕事さえできたら信頼され、コミュ障は大目に見られる。
仕事力をこそ気にすべきだ。
気にすべきことを気にせず、気にしなくてよいことを気にするというちぐはぐさがあれば、当然、世の中でうまくいかなくなる。

私はできれば部屋に籠って本を読んでいたい。
顔そのものが気難しい。
眉間の縦皺がものをいう。
今は巨大マンションの管理清掃のパートをしており、居住地では自治会で役割をもっており、多くの人と接している。
なるべく公正にふるまう。
陰口をいわない。
困っている人がいたら助けようとする。
顔が気難しかろうと、コミュ障があろうと、そういうところを示していれば、徐々に人間関係はよくなっていくのではないだろうか。

ところで、45年ほど前の言友会にも「治す努力の否定」の精神で治す努力をすればよいという人たちがいた。
一緒に発音練習しようと誘われたことがある。
私を誘った人は会社員で、外部と交渉する仕事をしていたから、吃音を治したかったのだろう。
しかし当時の私は有効な発音練習はまだ見つかっていないと考えていたので、誘いに乗らなかった。

しかし有効な方法があるならば、治す努力をしてもよいと私は思っている。
吃音がひどくて生活に支障をきたしている人が症状を軽くしたいと思うのであれば、その有効な方法があるならば、その努力をしたらよいと思う。
ただし吃音を口実にしてできることもしないようでは、効果は乏しいと思う。

吃音を恥じないことは吃音軽減の必要条件といってよいかも知れないと私は思っている。
吃音は脳の自動制御的な働きで起きると私は思っているが、その自動制御機構は脳の高次機構に属するからいろいろな入力を受けるだろう。
それによって過敏に働くことはありうると思っている。
吃音を恥じ、吃ることを怖れていると、あるいは過剰な完璧壁があると、微細な失敗に過敏に反応し、吃音が起きやすくなるかも知れない。
その意味でも吃音を恥じてはならないと思っている。
しかし吃音を恥じないことは吃音軽減の必要条件であるが、十分条件ではないと考える。
従って、吃りを気にせずに話していたら徐々に軽くなるとまではいいきれないと思う。
だから吃音軽減の訓練はしてもよいと思うが、しかしやり方を間違うと時間の浪費になり、がっかりするだろう。

吃音は完治はむずかしいかも知れないが、多くの場合、軽減しうるのではないかと私は思っている。
私は完治していないが、非常に軽くなっているし、吃っても気にしないので、治す努力をしていない。
めんどうくさいので、していない。

人は変わりうる 

若いうちはどうしても同世代の仲間と自分を比較してしまう。
そして焦り、絶望感にとらわれやすい。
かつ、こういう自分が今後もずっと続くと思いがちである。
私もそうだったが、若いうちは近視眼的になりがちである。
しかし後で思ったのは、もっと大局的に今後を見据え、体勢を立て直すべきだったということだ。
若い頃の私は自分の余命を数年と思っていた。
ところが予想外に生きのび、とうとう70を越えてしまった。
そして若い頃の私からは想像できないほどに吃音が軽くなり、かつ社会的な役割をもつようになった。
私は春の団地の総会で司会を務めることになっているようだ。
私ですら変化してきたのだから、とくに若い人たちは現状がずっと続くと考えるべきではない。
絶望してはならない。

私は貧乏老人だから私を負け組と見る人もいるだろうが、私は考えさせられることの多いおもしろい人生を送ってきたと思っている。
後悔はしていない。
後悔は無駄事である。

若い頃から吃音に関する仮説(妄想?)らしいものをもっていたので、その裏づけをえたいということが生きる支えになっていた。
その意味では、吃音は生きる支えになっていた。


Sicilienne (1995 Remastered Version)

youtu.be

少し物憂げだが、つつましやかな、愛すべき曲。

Sicilienne - Maria Theresa von Paradis (1759-1824)

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ファゴットのおおどかな音が大好きだ。

吃音と歌

インターネットで「吃音について歌われた曲はありますか?」という質問を見た。
調べてみると、ラップには吃音に関する歌があるようだ。

吃音症の高校生ラッパー「達磨さん」が歌っている。

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また「俺らよりダメな奴っているの?」さんも歌っている。

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さらに調べると、Scatman Johnという吃音もちのラッパーがいて、吃音者を励ますために歌っている。
 Scatman - Scatman John(日本語歌詞付き)をクリックすると彼の歌が再生される。

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彼はまた社会へのメッセージも歌っているようだ。
Scatmanを知ったのは収穫だ。

youtu.be

これらを見ると、一生懸命に生きている吃音者がいることが実感される。

私はラップはほとんど聴かない。
ラップで吃音が軽減されるのだろうか?
わからない。

今は亡き講談師の田辺一鶴(たなべいっかく)は吃音者だった。
彼に講談を習ったある吃音者が「話は勢いだ」といった。
それはわかる気がするが、しかし彼の吃音は完治していなかった。
注意深く観察すると、難発があった。
彼によると、一鶴師匠の吃音も完治していなかったという。

詩吟をやっている吃音者のグループもいた。
大きな声で漢詩などを吟じていたが、それでも彼らの吃音は治っていなかった。

問題は講談の勢いや詩吟の吟詠を日常の会話に適用できるのかということではないだろうか?
ラップについても同じことがいえるのではないだろうか?
日常の会話から遊離した練習法は吃音軽減にあまり有効ではないように私は思うが、どうだろう?

歌う時は吃らないとよくいわれる。
歌う時のことばの一音一音の継続時間はメロディに従属しており、日常の発話の一音一音の継続時間が0.15~0.2秒であるような定速性をもっていない。
そもそも歌う時と話す時の脳の制御機構は異なっていると私は思っている。
かつ吃音は日常の発話の定速性(モーラの等時性)を守る脳の制御機構によって引き起こされるものだと思っている。
だから、歌えば吃音は治るという説については、疑っている。

ただし通常の発話にはイントネーションやプロミネンスのような音楽性がそなわっている。
これらの音楽的イメージは発話運動のイメージを具体化することに役立つので、大いに取り入れたらよいと思う。
練習するのであれば、通常の発話に即した練習をするのがよいと思う。

ギンギラギンのエレキを聴いて吃音をぶっとばせ!
という口実で、いかした曲を入れよう。

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思い出の吃音者

私はかなりの数の吃音者を見ている。
正確に数えていないが、少なくとも30名以上の吃音者を見ていると思う。

高校時代、T君と同級だった。
彼は貧しい母子家庭の子だが、頭がよく、成績優秀だった。
しかし重度の吃音があり、難発時に唇などがブルブル震えた。
会話に加わることはあまりなかったが、いつもにこやかな表情で、ひょうひょうとしていた。
彼のそういうところは私も見習わなければならないと思った。
彼は国立大学に入ったが、その後、鍼師になったと聞いている。

私は方々をわたり歩いたが、関西方面でN君を知った。
彼は重度の吃音があり、難発時に唇などがブルブル震える。
私が身近に知っている限りでは、日本には少なくとも2人の横綱級の吃音者がいて、東の横綱はT君、西の横綱はN君と思われた。
それでN君を「西の重吃王!The King of・・!」と呼んだら、苦笑いしていた。
公務員で、水質の検査・管理の仕事をしていた。
彼は自分の意思を貫く性向があると思う。
定年で退職し、「蝶を追って暮らしている」という手紙がきた。
蝶の採集に熱中したようだ。
その後、「断捨離します」という手紙が届き、さらに彼女ができたという連絡もきた。
彼も今まで苦労しただろうと思う。
しかし坦々とふるまい、よく笑っていたのが思い出される。

関西方面のT'君も公務員だった。
彼の吃音はそれほどひどくないが、吃っていることはすぐに見て取れる。
正直で、社交的で、いたずらっぽいキャラクターで、結構なプレイボーイだった。
その武勇伝を私もちょっと聞かされている。

関西方面のH君は食品を販売する家に生まれ、その仕事を継いでいる。
彼は初対面の人とは吃らずにすらすら話す。
しかし私とリラックスして話す時はかなり吃る。
その吃り方は特徴がある。
一見連発のようだが、難発から派生した連発様の話し方と思われる。
難発の継続時間が短いので、軽い連発のように聞こえる。
伸発もあった。
彼は趣味でチェロを弾く。
私はたまたまバッハの無伴奏チェロ組曲第4番の楽譜をもっていたので、これを弾いてくれと頼んだ。
彼はぎこちないながらもていねいにゆっくり演奏してくれたので、聴いていて発見があり、おもしろかった。
一緒に奈良の薬師寺に行き、夕暮れ時に聞いた鐘の音は忘れがたい。
ヨット遊びも懐かしい思い出だ。
彼も明るいさばけた感じの人だった。

関東方面のW君?(名前を忘れてしまった)とは工場で知り合った。
彼は私と話す時にさほど吃っていなかったが、私は吃音者なので相手の吃音はすぐにわかる。
私も吃ることを彼に伝え、彼と親しく話すようになった。
彼は以前の工場ではステンレスの加工が多かったという。
それで私は「これからはあなたをSUS304のWと呼ぶ」といった。*1
彼は苦笑した。
彼もクラシック音楽を聴くという。
ブルックナーが好きだという。
私は古典派以前を聴くが、ロマン派以降はあまり聴かない。
彼は私とは話すが、他の同僚とはあまり話さなかった。
吃音を隠そうとするからだろう。
それで他の同僚は何でこちらとは話さないのだろうと、彼に疑念をもつようになる。
無視されていると思い、彼に反感をもつようになる。
私は同僚に彼のことを訊かれ、「W君は吃りがあるから話しづらいんです」と伝えた。
同僚は驚いた表情を見せた。
彼は1カ月もたたずに唐突に退職してしまった。

息苦しい文が多かったので、息抜きになりそうな文を入れた。
しかしプライバシーの問題があるので、こういう文はもう書かない。

このブログは息苦しいと自分でも思うので、息抜きの音楽を入れてもよいかと今思いついた。
試しに入れてみよう。


Stranger On The Shore ~ Acker Bilk ~ (1961)

youtu.be


*1
ステンレスは合金で、混合する素材の種類や比率によって多くのものがある。
SUS304はさびにくいステンレスの代表といってよい。

吃音は恥ずかしいことか、情けないことか? (2)

吃音者もいろいろで、吃音を極力隠そうとする吃音者もいれば、吃音を隠そうとしない吃音者もいる。
その違いは何によるのだろう?
おそらくその人の人生経緯(吃音をバカにされた経験etc.)、周囲から受け入れられているかどうかの自己評価、人生観、世界観、性格などにもよるだろう。
また、吃音そのものに関する考え方も関係しているだろう。

吃音を恥としない吃音の考え方

まず、吃音に関する私の考え方を書かせていただく。
吃音は正常な話し方ではないという意味では異常である。
だから異常な原因から説明されるべきである、と考えられがちである。
しかしこれは原因-結果に関する単純すぎる考え方であると思う。
私は比ゆ的にいうと吃音は免疫反応のようなもので、それなりに合理的根拠をもっているが、ただその反応によってかえって当人に大きな害を与えてしまう問題である、と考えている。

まず最初に、発話運動の微細な失敗がある。
これは免疫反応でいうと抗原に相当する。
それは微細なので意識にのぼらないが、発話運動を精緻に自動制御している脳の部位はそれを感知する。
その部位は発話運動を構成する各筋運動の組み合わせのタイミングに失敗していないかどうかを約0.15~0.2秒以下の許容範囲で監視している。
何故、約0.15~0.2秒以下といえるかというと、通常の会話には一定の定速性があり、1拍の継続時間がほぼ0.15~0.2秒である。 *1
その1拍を構成する各筋運動のタイミングの許容幅はそれよりもずっと小さいはずだからである。
このタイミングの失敗を許容すると、構音障害になる。
発話運動のスピードに揺らぎが生じたり、発音が不明瞭になるだろう。
この失敗を許容しない場合、発話運動の定速性を守ろうとする脳の部位はどういう反応を起こすだろうか?
その脳の部位は後続すべき運動指令の発射を延期もしくはキャンセルしてしまうのではないか、すると遂行中の運動がそのまま継続されてしまう、それが吃音ではないか、と私は推測する。 *2
従って、吃音は筋運動のタイミングの失敗を感知した脳の部位が失敗に対する対策として引き起こしているものであり、その意味では合理的根拠がある、と考える。
しかし結果的にはかえって大ごとになってしまう。
これはもっと説明が必要だと思うが、基本的にはこれが吃音に関する私の考え方である。
吃音は脳の自動制御の問題だと考える。

発話運動はそもそも各筋運動の協調のタイミングの精度を要するむずかしい運動である。
しかし私たちは脳の自動制御の助けを借りているので、むずかしさを意識することなく発話できている。
発話は簡単なことだと思っている。
しかし実際はタイミングの精度を要するむずかしい運動であるから、それに失敗する人が一定数いてもおかしくない。
それは微細な失敗に過ぎないが、その失敗に対する脳の自動制御的な反応がことを大きくしてしまう。
こういう問題に過ぎないと見ているので、吃音を恥じる必要はない、と私は考えている。
吃音を恥じるのは愚かごとだし、吃音を恥じて自分で自分を責め、人生を損なうのは、さらなる愚かごとだと考えている。

吃音を恥とする吃音の考え方

一方、世の中には吃音に関する別の考え方があって、それがほぼ通念化しているように思われる。
それは、緊張するから吃る、あわてるから吃る、気が小さいから吃る、自分に自信がないから吃る、という考え方だ。
吃音は吃音者の性格的人間的な弱さに由来するものという考え方である。
しかし吃音があれば、おそらくほとんどの人は会話において緊張しやすくなるし、自分に自信がもてなくなるだろう。
吃音の結果、そうなるだろう。
吃音の原因と結果を混同してはならないのだが、その見極めは吃音を経験していない人にはむずかしいのだろう。

吃音は性格的人間的な弱さに由来すると考えるならば、確かに吃音は恥ずかしいものになる。
そういう考え方をするならば、吃音を隠そうとして消極的になるだろうし、劣等感によってさらに自分を追い込んでしまうこともありうるだろう。
ところが、私は吃音はそのような原因で起きるものではないと考えており、従って吃音は恥ずかしいという感情をもたない。
考え方の違いで感情が違ってくる。

予期闘争仮説

吃音は異常だから異常な原因で説明できるという短絡的な考えは世間に通念として広がっているだけでない。
心理学を信奉する研究者にもあるように思われる。
彼らは吃る恐怖や不安という一種の異常な感情で吃音を説明しようとしているように私には見える。
たとえば予期闘争仮説がある。
それは吃音者は吃ることを予期して不安や怖れを感じ、その予期と抗争することで吃るという説である。
確かに、吃音者は吃音を予期すると吃りやすくなるのは事実である。
しかし吃音を予期する時、私自身は不安といえるほどのものを感じていない。
私は吃っても気にしないから、不安といえるほどのものは感じない。
だから吃音の予期は感情の問題ではないと考える。
吃音の予期はむしろ運動イメージの問題だと考える。
運動イメージはあまり意識されないが、発話運動にさいして諸筋肉をととのえる役割をもっているだろう。
どういう運動イメージをもって運動をスタートさせるかということは重要ではないか?
吃音者は吃音を予期する時、話す運動イメージが吃りに抗いながら話そうともがく運動イメージと重なってしまうから、再び吃りを再現してしまうのではないだろうか?

筋肉の制御をつかさどる脳の部位は運動イメージに導かれた諸筋肉の状態を感知し、それに応じて運動指令を調整するだろう。
だから私は運動イメージを重視する。

考える手順という観点でいうと、私は吃音は筋運動の制御系で起きている問題と考えるから、制御系に即して考えることを優先する。
感情や緊張のような漠然とした概念で考えない。
とはいっても、感情や緊張が筋運動の制御系に影響を及ぼすことはありうる。
しかし筋運動の制御系に即して説明する努力を怠り、いきなり感情や緊張で説明するやり方は支持できない。

吃音を恐怖や不安で説明するのであれば、吃音者は自分を情けないと思っても不思議ではない。
そして本当に恐怖や不安を感じるようになるのではないだろうか?
考え方は感情を生み出す。
心理学的な説は一見学問的な体裁をとりながら、世の中の通念に従っているだけではないだろうか?
そして結果的に吃音者に恐怖や不安を与えているのではないだろうか?
こと吃音研究に関して、率直にいうと、心理学は学問の名に値するかという疑問を私はもっている。
それはあまりに無防備に主観的解釈を混入させていないだろうか?

感情の背後に考え方があること

痛みのような感覚は一次的で、ほぼ誰にも共通する。
しかし感情はもっと複雑で、その背後に考え方が含まれていることがある。
人は正しく考えることもあるし、誤って考えることもある。
だからうつ病などの感情障害の治療に認知療法が適用されることがある。
認知療法は感情の背後にある考え方の歪みを正すことで感情障害を治療しようとする。
人間は理性があるのだから、否定的な感情の奴隷になるのではなく、その感情の背後にある考え方にメスを入れ、誤りや歪みをただし、理にかなった感情をもつべきではないだろうか。

(3)へ続く

*1 
拍という言葉はモーラという言葉の代わりに使われることがある。
私は一般になじみの薄いモーラという言葉を使わずに、拍という言葉を使っている。
モーラは日本語のリズムの基本的な単位で、その継続時間はほぼ一定である。
俳句の5・7・5はモーラを数えている。
定義によることだと思うが、モーラと音節は一致するところもあるが、一致しないところもある。
たとえば「まってくれ そうあわてるな 棺桶よ」という川柳?において、「まっ」は1音節だが、2モーラとして数えられる。
参照:https://nihongokyoiku-shiken.com/japanese-beat-mora/

*2
吃音を直接的に引き起こす脳の部位は、発話運動の遂行に直接的にかかわっており、ある程度パッケージ化された運動指令の切り替えを高速で行っている、と推測する。
この部位は運動指令A、Bの切り替えの制御、いい換えるとA、Bの継続時間の制御を専門に高速で行っているので、発話運動の停止には関与しないし、パッケージ化された運動指令内部の編集も行わない、と推測する。
一方、発話運動停止の判断は大脳が行うと思われるが、それは一定の時間を要するだろう。
ところが発話運動の遂行に直接かかわっている脳の部位は高速で働いているので、大脳の判断を待つことなく、運動指令の切り替えの制御を実行してしまう。
すなわち運動指令Aの結果から失敗を判断し、運動指令Bへの切り替えを延期またはキャンセルすると、遂行中の運動指令Aが継続発射されてしまう。
それが吃音である、と推測する。
これは事象関連電位による脳の研究からも推測したことだが、もっと勉強してから書きたいと思っている。
参照:https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E4%BA%8B%E8%B1%A1%E9%96%A2%E9%80%A3%E9%9B%BB%E4%BD%8D

音声の連続性と記号の非連続性

下の1~3の音声ファイルは、日本語の言葉の前後をひっくり返したものである。
この音声ファイルを聴いて、ひっくり返す前の言葉がわかるだろうか?

1.
 

2.

3.


下の1'~3'の音声ファイルはそれぞれ前後をひっくり返す前の音声で、1~3に対応している。

1'

2'.

3'.

1'は「おはようございます」、2'は「ありがとうございます」、3'は「ちょっと待って」である。

たとえば「おはようございます」の前後をひっくり返しても「すまいざごうよはお」にならない。
それは、「おはようございます」という音声の流れを9つの過程に分断して9つのひらかな文字で表すのはあまりにも粗すぎる近似であって、正確な近似でないからだろう。
それは「おはようございます」の連続性を正確に表しえていない。
これを意外に思うとしたら、それは「おはようございます」の運動イメージが本来の連続体のイメージからかけ離れてしまっているということかも知れない。

次に「おはようございます」を音素記号で表すと、おそらく/ohayo-gozaimasu/になる。(不勉強なので、間違っているかも知れないが)
これは「おはようございます」という音声の流れを15の過程に分断して15の記号で近似している。
こちらの方がより細かい近似である。
この前後をひっくりかえすと、/usamiazogo-yaho/になる。
1の音声ファイルが幾分そのように聞こえるならば、音素記号は幾分正確な近似といえるのだろう。
しかし音素記号をつなげても、しょせん近似であって、「おはようございます」という連続体を100%正確に表現することはできない。
厳しく調べれば、それが明らかになると思う。
たとえば音素記号だけでは調音結合を表現できない。
また、ある音素は複数の過程からなっているのに、それをひとつの記号で表しているということもあるかも知れない。

それにしても、幼児はどのように言葉を習得していくのだろう?
不思議だ。
もちろん音声にひらがなを対応させながら習得している訳ではない。
少なくとも最初は音声の流れを連続体として聴き取り、習得していくのではないだろうか?
たとえば「おはよう」を分断できない連続体として習得していくのではないだろうか?
しかし徐々に連続体をいくつかの過程に分断し、記号化して捉える傾向が強まっていくのだろうか?
それが発話運動のイメージにも影響していくのだろうか?

たとえば「おはようございます」という音声の流れを個別の「お」、「は」etc.を単純につなげたものと捉えるならば、「お」から「は」へのなめらかな移行に失敗しやすくなるかも知れない。
これは考えすぎか?

連続性と非連続性は今風にいえば、アナログとデジタルか。
デジタルをより細密化することでアナログをより精密に近似しようとするのが現代の流れなのだろう。

吃音論議の混乱

吃音の原因として、遺伝、脳の機能不全、緊張、恐怖心、ストレスなどが未整理なままにあげられることがある。
心因性吃音という分類もあるから、その原因は心因にあると断定されているのだろう。

しかし吃音の原因はまだわかっていない。
だから、原因については限定的ないい方しかできないと思う。
せいぜい○○は吃音と関係しているかも知れないくらいしかいえないと思う。

緊張すると吃るという吃音者が多いが、私は緊張しても吃らないこともあるし、緊張していなくても吃ることもある。
私たちは吃る時の条件を十分に自覚しているとは限らない。
心理は意識にのぼるから自覚しやすいが、身体内のことは自覚しづらい。

私はある失敗に対して脳のある部位が反応して吃音が起きると推測するが、従って、ある失敗に対して脳のある部位が反応しなければ吃音は起きないと考える。
吃音の直接的原因は脳のある部位が反応を起こすことにあると考える。
その反応のきっかけになるある失敗は吃音の必要条件ではあるが、十分条件ではない。
しかし因果の流れで見ると、その失敗は吃音の間接的原因に当たると考える。
さらに因果の流れを遡ると、その失敗を引き起こす原因がまたあるだろう。
間接性にはさまざまなレベルがあるし、間接的原因にはいろいろなものがありうるだろう。
私は口蓋裂から派生すると思われる吃音を見たことがあるが、発音に支障をきたすような何らかの障害は間接的原因に入りうると思う。
しかしすべての吃音者に口蓋裂がある訳ではない。
私は酒に酔うと吃音が悪化するが、吃音の悪化は常に酒のせいかというと、そうではない。
間接的原因はさまざまだが、これを直接的原因と混同するのは短絡的すぎる。
私は直接的原因と間接的原因を区別するが、吃音の原因に関する議論ではとかくこれらが一緒くたにされている感があると思う。
そして吃音の原因はさまざまである、といわれることもある。
議論の土台ができていないから、議論がかみあわない。

これが吃音の原因だというためには、さらに踏み込んだ説明が必要だと思う。
吃音は、声が震えることではないし、しどろもどろになることではないし、呂律がまわらなくなることでもない。
吃音には特有の症状がある。
連発、伸発、難発という症状がある。
それらは、発話運動に含まれるある運動部分が連鎖・継続する症状である。
何故、連鎖・継続するのか?
それをきちんと説明しなければならない。
今まで、それを説明する仮説が世に出たことがあるだろうか?

吃音を心因で説明する人は、緊張するから吃るというかも知れない。
しかし、声が震える、しどろもどろになる、呂律がまわらなくなるといったことではなく、まさに吃音が起きるということ、発話運動に含まれるある運動部分が連鎖・継続すること、これを説明できるだろうか?
これを説明できなければ、仮説の域に遠く及ばない。

これは心因説に限らない。
声が震える、しどろもどろになる、呂律がまわらなくなる、といったことと区別できないあいまいなレベルで議論しても仕方がない。
こういうあいまいさを是認して議論しているようでは、百年河清をまつようなものだ。