吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

黙読で吃るか?

次のような相談がインターネット上に寄せられている。

私は普段から読書が好きで毎晩本を読んでから眠るのですが、黙読でも何故か吃るのです。
読んでいると、実際に吃音が出る時のように詰まったり、息が苦しくなります。
そのせいでスムーズに読めません。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14295407424?__ysp=5ZCD6Z%2Bz44CA44Gp44KC44KK

黙読で吃ることはあるのだろうか?
私の経験ではない。
これは吃音とは何か?吃音の原因・仕組みはどういうものか?にかかわる問題のように思われる。

私の推測では、吃音とは発話運動のある失敗をきっかけに失敗している運動の状態が自動的かつ瞬時に継続し、次の運動の段階へ進めなくなるものである。
通常の発話には一定の定速性がある。
つまり1モーラの継続時間がほぼ0.15~0.2秒になるように自動制御されている。
吃音のきっかけになる失敗とは、こういう時間軸にそった発話運動にかかわる諸筋肉の組み合わせのタイミングの失敗である、と私は推測している。
より具体的には、母音が出るタイミングの失敗であったり、調音結合を実現するための諸筋肉の動的な組み合わせの失敗である。
脳がそれらを聴覚や筋運動感覚を通じて感知するやいなや、吃音が起きる。
ところで黙読において脳はそれらの失敗を感知するだろうか?
まず、黙読では音声が出ていないのだから、聴覚を通じて失敗を感知することはありえない。
また、黙読はたんに音読から音声を省略しただけのものではないだろう。
黙読では諸筋肉の動きもかなり省略されているから、諸筋肉の組み合わせのタイミングの失敗は起こりえないように思われる。
黙読は音読とは質的に異なったもののように思われる。
私は黙読で吃ることはありえないと思っている。

しかし相談者は黙読で吃り、息が苦しくなると訴えている。
そうだとすると、それは黙読する時、吃っている時の状態が思い出され、それが再現されてしまうということだろうか?
それはむしろ神経症的な状態のように思われるが。

これに似たこととして、吃音者は話す時に吃音を予期すると吃るということがある。
そういうことがあることは私も認めるが、私の考えでは、吃音者は吃音に抗って話す運動イメージをもって話そうとするが、それが諸筋肉の状態を不適切にするが故に吃音が再現されてしまう。
心理学者は恐怖心や不安があるから吃ると解釈し、吃音を回避反応としてとらえるようだが、それは心理学流の主観的解釈である。
身体のレベルで失敗があることが吃音の必須条件であって、心理が直接吃音を引き起こすことはない、と私は考えている。
吃音者の多くは緊張すると吃るという。
緊張しているか否かは容易に自覚できるが、話す時の諸筋肉の状態を自覚しているとは限らない。
緊張しなくても吃る人がいることをきちんと見なければならない。

音読が省略されて、黙読になり、黙読が省略されて内言になる。
内言は心の中の言葉だが、その省略の程度はさまざまだろう。
私は言語なくして思考はないと思っていたが、ヴィゴツキーはその考えを否定している。
言語以前にも思考はあったが、人間においては思考と言語が出会った。
内言が省略されて思考になる、という一方通行で考えてはいけないのだろう。
思考はもっと広大な世界なのだろう。
思考は瞬時にひらめくものだ。
内言は断片的にそれに対応するだけで、おそらく思考の全プロセスに対応するものではないのだろう。
思考はもちろん黙読のようにのろく進むものではないし、思考がおのずから文になる訳ではない。
人間は思考をどのようにして文に展開していくのだろう?
興味がある。

私は「吃音ノート」を気にかけているが、無為無気力の状態にあり、ぼーっとしている。
部屋は片付かないし、読書もしていない。
人に勧められて「どもる体」( 伊藤亜紗著) を読んだが、同意できる部分と同意できない部分?がある。
あいまいさを感じるので再読したいが、億劫で再読していない。
著者は難発を回避反応ととらえている。
私は吃音は身体レベルでの失敗をきっかけに起きると考えている。
難発も失敗をきっかけに起きると考えているから、それは失敗を回避するものではない。
すでに失敗しているから難発が起きる。
発話運動は末尾までなめらかに進展するようにあらかじめ準備してからスタートするフィードフォワード制御的な性質があるから、最初に諸筋肉のバランスを整えることが重要になる。
それに失敗していたら、進めないのは当たり前である。

 

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いろいろな吃音を統一的にとらえる ~ 吃音の原因はたくさんあるのか?

私は今までに書いてきたこととほぼ同じことを書くが、ただより明確に書こうと思う。

吃音にはさまざまな見方があるが、それらは互いにかみ合うことなく併存している。
緊張すると吃るという人が多いが、むしろ親しい人とリラックスして話している時に吃りやすいという人もいる。
後者は構えることなく心のままに話している時に吃りやすい。
上記のことと似ているが、話す運動を意識するから吃るという人がいて、だから意識せずに話すべきだという。
ここには一面の真理があると思う。
が、私自身はなめらかに話す運動イメージを明確にすることで吃音を改善してきたと思っており、それは意識的なあり方である。
このふたつの意見は一見対立しているようだが、ズレがあって議論がかみ合っていないと思われる。
酒に酔うと吃らないという吃音者がいる一方で、私のように酒に酔うと吃音が頻発する者もいる。
一時期、左利きを右利きに矯正すると吃音になるという説が一世を風靡したが、今はその説は全否定されている。
しかしこの説を全否定することについては、私はちょっと疑問をもっていて、一部の吃音者では利き手の矯正が関係しているかも知れないと疑っている。
近年では、吃音はその8割近くが遺伝性のものであると見られているが、環境の影響も無視できない。
また、私は口蓋裂から派生していると推測される吃音を3例ほど見たことがある。
また、ある特殊な吃り方をする高齢者にお話を伺ったことがあるが、彼は戦時中に南方で熱病にかかってから吃りだしたという。
彼は表情も歩き方もパーキンソン病のように見えた。
彼はパーキンソン病の筋強剛に由来するかのような重く引きずるような連発様の話し方をした。
その連発様の発音は語頭でも語中でも現れた。
私が見る限りでは伸発や難発はなかった。
こういうさまざまな吃音あるいは吃音様の発音があるが、これらを統一的にとらえることは可能だろうか?
現状はさまざまな意見が乱雑に出ているだけで、意見がかみ合わないので、議論にもならない。
そして吃音はいろいろな原因が絡んで起きるというあいまいな説明で済まされている。

私の推測では、吃音は発話運動のある種の失敗に対する補償的な反応として起きる。
このきっかけがあると吃音は瞬時に自動的に発生するから、吃音のきっかけと吃音そのものは一体化してとらえられがちであるが、両者は区別されなければならない。
吃音のきっかけになる発話運動の失敗はたんに吃音のきっかけに過ぎず、まだ吃音ではない。
そして吃音のきっかけになる発話運動の失敗はさまざまな原因で起こりうる。
私の推測では、上に記したようなさまざまな吃音の原因として予想されるものは、実はたんに吃音のきっかけになる発話運動の失敗の原因を予想させるだけであって、吃音の原因を示している訳ではないと考える。
吃音はあくまでも吃音のきっかけが脳のある部位に感知されて以降のプロセスである。
だからさまざまな吃音があるように見えても、私は驚かないし、吃音を引き起こす本当の原因はただひとつであると思っている。
それは脳のある部位が発話運動のある種の失敗を感知し、後続の運動指令への切り替えを延期し、遂行中の運動指令を継続発射することであると思っている。

近年の脳を観察した研究では、”吃音者・児では左前頭部にある発話中枢(ブローカ野)の体積がやや小さく、左前頭部と左側頭部の言語中枢間を結ぶ神経線維束(弓状束)が乱れている”という報告がでている。*1
しかしこの研究で吃音の仕組みが明らかになるとは私は思わない。
たんに発話運動に失敗しやすい仕組みが明らかになるに過ぎないと思う。
吃音者にはもともと発話運動のプログラミングに何らかの脆弱性があり、緊張などの状況下で脳内に雑音が生じると、プログラミングに失敗しやすくなることが引き金となって吃りやすくなるということがあるのかも知れない。
だから緊張すると吃りやすいという見方には一定の根拠があるのかも知れない。
一方、私は緊張下ではなめらかに話す運動イメージを明瞭にして話すので、吃音のきっかけになる失敗を減らし、それで吃音を減らしているのかも知れない。
勝手な妄想だが、たとえば脳内の青斑核の助けを借りてプログラミングを補強することで、結果的に吃音を減らしているのかも知れない。
緊張や意識のようなあいまいな言葉で考えていても埒があかないが、このように具体的に考えていくと見えてくるものがあるかも知れない。

発話運動のある種の失敗をきっかけにして、ある脳の部位が吃音が引き起こすと私は推測するのだが、では吃音のきっかけになる失敗はどういう種類の失敗だろうか?
これも私の推測に過ぎないが、それは発話運動の最終出力の時間制御に影響する失敗ではないだろうか?
発話運動はある一定の速さで進むが、その運動のある瞬間の断面は筋運動A、筋運動B、筋運動Cで構成されているとして、たとえば筋運動Cが出遅れた時、これは時間制御の失敗になるが、空間的な視点に立つとA・B・Cの空間的統合の失敗でもある。
この空間的統合は語頭の音を出す以前の準備的過程においてもあり、それに失敗すると難発になると私は見ている。
また語頭の音を出す以前の準備的過程にも最適な速さがあり、その速さが不適正だと難発になるのではないかと思っている。
だからわずかな躊躇があっても難発につながるのではないかと思っている。
で、私は発話運動の最終出力を時間制御している脳の部位は各筋運動を個別に制御しているとは思わない。
この部位はある程度まとまっている運動指令群を脳の別の領域から受け取っており、それが欠陥を内包した運動指令群である時、これを感知して吃音を引き起こすと思っている。
それはこの部位が後続するはずであった運動指令群への切り替えを延期する結果、遂行中の失敗を含む運動指令群を継続発射させる形で起きる。
何故そうなるかというと、これも推測だが、この部位はもともと発話運動を構成する運動部分の継続時間を制御しており、それは遂行中の運動部分を継続するか、それとも次の運動部分へ切り替えるかの二択しかもたない単純な機構だからではないだろうか。
高速で作動するこの機構はそういう単純な仕組みをもっているのではないだろうか。
この機構は発話運動の規範と照らし合わせつつ時間制御しているはずだが、もしも失敗があればそれを許容できないから次の運動部分への切り替えを延期(キャンセル)する。
本来ならば、失敗があれば一旦発話運動を中止し、また発話運動をやり直すべきである。
ところがこの機構はブレーキをもっていない。
次の運動部分の切り替えを行うハンドルしかもっていない。
そもそも発話運動を中止するには大脳が判断して中止すると思われるが、それには一定の時間がかかる。
しかし発話運動遂行の時間制御をしている脳の部位は高速で働いているので、発話運動を中止する以前に作動してしまう。
だから吃音が発生してしまうと推測する。

では、この脳の部位はどこだろう?
玉砕を覚悟で私の妄想をいうならば、大脳と連携しつつ運動の最終出力を微調整している小脳(中間部)ではないか?
そしてこの部位は正常もしくはやや過敏である。
この部位に異常があるから吃音が起きるわけではない。
この妄想は明確だから白黒をつけやすいだろう。
私は28歳頃に小脳が吃音を引き起こすと口走り始めた。
そして誰からも相手にされない妄想をかかえて45年ほどが過ぎ去った。
私もそろそろ後期高齢者になる。
私の妄想は明確であるが故にあっけなく崩壊するかも知れない。
それならそれでよい。
私もやっと重荷から解放される。
後は好きなように余生を送る。

私の妄想は、自分の吃音を観察して得られている面もあるが、なるべく合理的に説明することを重視して推測を重ねた結果、以上のような形にまとまってきたものである。

*1    吃音(どもり)と聴覚が密接に関連  - 吃音早期からの大脳言語処理
                   感覚機能系障害研究部長 森浩一
           http://www.rehab.go.jp/rehanews/japanese/No332/6_story.html

余談だが、私はインターネット上の吃音の相談に回答する意欲がなくなった。
これは以前からそうだが、深刻に悩んでいると思われる相談に私なりの考えを書き送っても、反応が返ってこないことが多い。
たとえ回答に同意できなくても、私なら一応お礼などのコメントを返す。
何の反応もないと、相談者がどう考えているのかわからないし、私は無視されたように感じる。
こういうことが吃音者に多いように思う。
実生活できちんとした人間関係を築きえていないから、そうなるのだろうと推測する。

私たちは個人として行動しているつもりでも、吃音者という集団の一員でもある。
吃音者は一般的にマナーに欠けるというイメージができてしまえば、吃音者がいくら相談をもちかけても、相談に応じる人は少なくなるかも知れない。
これは就活の問題でもいえると思う。
過去に採用した吃音者が使い物にならないことが多かった場合、吃音者は採用されなくなる可能性が高くなる。
私たちは個人個人だが、同時に吃音者という集団に属しており、この集団のイメージに寄与している。

Relaxing Arabic Music 

私は音楽を聴くのが好きだが、バックグラウンドミュージックとして聞き流しているだけだ。
中東の音楽には異国的なものを感じるが、何故か郷愁のようなものをも感じる。
それにしてもこの曲は悲しい。
とてもリラックスできない。
今の中東情勢を見ると、リラックスしている場合ではないが。
むろんハマスがテロ行為をしたことがきっかけになっているが、パレスチナ人は長くイスラエルから迫害されてきた。
しかもハマスのテロ行為は事前にネタニヤフ政権に察知されていたが、あえてそれを呼び込んで、パレスチナ人をガザから追放するために利用しているという見方もある。
また、汚職容疑で裁判中のネタニヤフは有罪で収監される可能性もある状況で、今回のことを利用して挙国一致体制を築いたという見方もある。
裏には裏があるから、マスメディアの報道をうのみにできない。
また日本のマスメディアは凄惨な場面を報道しないから、戦争の実態が伝わっていない。
ともかく無実の子供が今も虐殺されているから即時休戦を求めるが、岸田首相は休戦という言葉を拒否し、一時休止という言葉に固執する。
一時休止はイスラエルに批判的な世論の高まりによってアメリカがもちだしてきた言葉だ。
それは戦争の再開を前提にした見せかけの言葉であって、休戦とは違う意味がある。
岸田首相はアメリカのいいなりになってガザ市民に対する殺戮を容認するらしい。

インターネット上の吃音の相談に対する1回答

私は「吃音ノート」のことはずっと気にかかっていたが、しばらくかかわらずに過ごしてきた。
が、インターネット上の吃音の相談には私の考えを書き送っていた。
しょせん妄想にとりつかれたジジーのたわごとと見られるのが落ちだろうが、
相談者は苦しんでいるのだから、一応書くだけは書き、後は相談者の判断に任せたらよい。
しかしそのつど書くのは大変なので、回答のひな型を書こうと思いついた。
それを「吃音ノート」にも入れておこうと思う。
以前に書いたことをまとめたような文になってしまうが。

 

吃音は治りますかとか、吃音を治す方法はありますかという相談をインターネットでよく見ます。
幼少期に吃音を発症し、中学生高校生になっても吃っている場合、吃音を完治させることはむずかしいかも知れない、と私は思います。
しかし吃音を軽くすることはできるのではないかと思います。
そのことについて書きます。

ただし私は専門家ではありません。
たんに独自の考えをもっている一吃音者に過ぎません。
こういう考えもあるのか?という程度に読んでいただいて結構です。

私は3歳頃に吃音を発症し、70を越えた今も吃っています。
おそらく発症した素因はあるでしょう。
口の動きが遅く、咀嚼ものろいです。
ただし、以前は筆談せざるを得ないほどに難発がひどかったですが、今は吃音は軽くなっており、吃音で困っておりません。
日頃は吃音を意識せずに話しているし、初対面の人と話すのも平気です。
団地の会合で司会や議長を務めることもありますが、問題なくこなします。
にがてな言葉では難発になることもありますが、今は声がつまってしまう時間は大目に見ても1秒くらいですから、そう困ったことになりません。
かつ吃音は恥ずべきことではないと考えているので、吃っても気にしません。

私の吃音が軽くなった原因(間接的原因)は、ある程度世慣れしたこと(?)、私は吃っても気にしないこと、10年ほど前にある練習をしたことによるのではないかと思っています。
練習後、吃音はほぼ消滅しましたが、あるきっかけでまた復活しました。
しかしそれも自然に軽くなり、今に至っています。
もう1度練習したら、吃音はさらに軽くなるだろうと思いますが、現状でほぼ満足しているので、練習しておりません。
私は吃音の完治をめざしません。

私の軽減法は吃音の原因・仕組みに関するある推測に基づいています。
それを踏まえずに機械的に練習しても、効果は持続しないかも知れません。
ですから、理屈っぽいことを書かせていただきます。

現在、吃音の原因・仕組みはわかっておりませんが、私なりに推測(妄想)していることがあります。
それは、発話運動を遂行している最中にある種の失敗が起きた時、それを感知した脳のある正常な部位が後続するはずだった運動指令の発射を延期した結果、失敗を含む遂行中の運動指令が継続発射され、失敗が継続してしまうもの、それが吃音ではないかということです。
この過程はほぼ自動的に起きてしまうので、この自動的過程に介入して吃音を改善することはほぼ無理だろう、と私は推測します。
脳のこの部位は運動指令の発射の継続時間(または切り替えのタイミング)を高速に微調整している自動制御機構で、遂行中の運動指令を継続発射するか、または後続する運動指令の発射へ切り替えるか、この二択しかもたない単純なスイッチ機構であるとするならば、後続する運動指令への切り替えを延期することは遂行中の運動指令を継続発射することと同じです。
この機構はもともと発話の時間制御をこのように日常的に行っている機構であって、吃音時にのみこのように働くものではないだろう、と推測します。

吃音は心理学者がいうような回避反応ではないと私は考えています。
吃音が何故かくも強固に起きてしまうのかを考えると、吃音はむしろ話す努力や話す行為に内在する問題とみなす方が無理がないと考えます。
吃音とはすでに遂行されている失敗を含む運動の部分が継続してしまうものであると推測しますが、難発も、発話運動を恐怖で引き留めることではないし、発話運動をしようかしまいか葛藤することではなく、連発や伸発と同様、すでに遂行している発話運動の失敗を含む部分が継続してしまうものであると推測します。
語頭の音はすでに遂行されている発話運動の結果として音がでるのですから、語頭の音がでる以前にすでに発話の準備的運動は遂行されています。
そこに失敗(とくに各筋運動のバランスの失敗)があるなら、私の推測では、その失敗を含む運動の状態が継続し、難発が発生します。
その失敗は非常に微細ですが、それが何故シビアに感知されるのかというと、それは発話運動におけるモーラの等時性を守るためではないか、と私は推測します。

では、吃音はどのようにして改善されうるのかですが、吃音は発話運動を遂行している最中にある失敗が起きた時、それを感知した脳のある正常な部位によって自動的に引き起こされるというのが私の推測ですから、吃音のきっかけになる発話運動のある種の失敗を起こさないようにすることが吃音の改善につながると考えます。
従って、吃音のきっかけになる失敗とはどういうものかを探ること、さらにいうと、なめらかな正常な発話運動とはどういうものかを探ることが重要だと考えます。
吃音だけを考えていても吃音の改善にはつながらないと考えます。

次に、そもそも吃音のきっかけになるある種の失敗は何故起きるのかですが、それはさまざまな原因で起こりうることで、一律にはいえないと考えます。
それは吃音のきっかけであって、まだ吃音ではなく、いわば吃音の間接因ですが、それはさまざまな原因で起こりえます。
私は口蓋裂から派生する失敗に起因すると思われる吃音を3例ほど見たことがありますし、私自身は酒に酔って微妙に呂律がまわらなくなると吃音が頻発します。

次に、その失敗はどういう種類の失敗なのかですが、発話内部でタイミング制御をしている脳のある正常な部位が感知・判断する種類の失敗、とくに時間制御にかかわる失敗に限られる、と推測します。
それはたとえば母音がでるタイミングの失敗です。
一方、「たまご」を「たなご」といい間違える失敗では吃音は起きません。
吃音を直接的に引き起こす脳のその部位は、脳が分業でプログラミングした運動指令を統合された形で受け取り、その最終出力の時間制御を微調整する部位ではないかと推測されますが、その部位が受け取った統合的運動指令を遂行すると、あるべきはずの母音が欠落するとか、調音結合に失敗するといった失敗が起きる場合に、脳のこの部位は失敗を感知・判断して吃音を引き起こす、と推測します。
仮に脳のこの部位に欠陥があるならば、失敗を感知・判断できず、吃音を引き起こさないだろう、と推測します。
つまり脳のこの部位の責任で発話運動内部のタイミング制御に失敗するから吃音が起きるのではなく、この部位が受け取った統合的な運動指令内部に欠陥があるから、脳のこの部位はそれを正しく感知・判断し、後続するはずだった運動指令の発射を延期し、その結果として吃音が発生する、と推測します。
吃音を直接的に引き起こす脳の部位は正常である、と推測します。
吃音は失敗に対する一種の補償作用として2次的に発生するものである、と推測します。

なお、私は吃音のきっかけになる発話運動のある種の失敗はさまざまな原因で起こりうる、つまり吃音の間接因はさまざまでありうるが、吃音の直接因はただひとつであると推測します。
それは発話運動を遂行している最中にある種の失敗が起きた時、それを感知した脳のある正常な部位が後続するはずだった運動指令の発射を延期すること、それが遂行中の失敗を含む運動の部分の継続になってしまうこと、これが吃音の唯一の直接因だろうと推測します。

私は「吃音ノート」というブログを書いていますが、吃音のきっかけになる失敗の例については、
「連発について(2)」
https://koiaus.hatenadiary.jp/entry/2021/08/29/183837
「調音結合と吃音について」
https://koiaus.hatenadiary.jp/entry/2021/10/08/192508
に書きました。

私の推測では、吃音のきっかけになる失敗を起こさなければ、吃音は発生しないことになります。
ですから、正常な発話運動はいかにしてなめらかに進展するのかを探求することこそが重要であると考えます。

吃音者は吃音体験を重ねることで、適正な発話運動イメージを見失い、吃音に抗って話す運動イメージをもつようになります。
それはかえって発話にかかわる諸筋肉のバランスを崩し、発話をなめらかに進展させる調音結合を壊しますから、吃音がさらに悪化する悪循環をもたらします。
多くの吃音者は吃音が悪循環的に悪化した状態にあります。
仮に、なめらかな発話運動イメージを回復し、それを定着させることができるならば、少なくとも吃音が悪循環的に悪化した分は改善できるのではないか、と私は考えます。

なお、吃音者は吃ることを予想すると吃りやすくなります。
吃音の予期とは、心理学者がいう不安や恐怖の問題ではなくて、運動イメージの問題であり、かつそれに導かれた諸筋肉の問題である、と考えます。
私の体験では、吃音の予期に不安や恐怖が伴うとは限らないし、吃音の予期では語頭の音をいう運動イメージが優勢になっており、それが調音結合を壊している、と考えます。

10年ほど前、私はおそらく1日に1~2時間ほどの発音練習を1~2カ月続けたと記憶します。
そのやり方は、「吃音の軽減について(2)」に書きました。
https://koiaus.hatenadiary.jp/entry/2021/11/07/130607

なめらかに正常に話す運動は語頭の音をだす以前からすでに始まっていますから、その最初の過程を重視します。
発話運動は失敗が起きた時に発話運動を遂行したまま失敗を修正できるタイプの運動ではありません。
つまりその意味でフィードバック制御ができるタイプの運動ではありません。
発話運動は一息でいう範囲の末尾の音にいたるまでをなめらかに展開できるようにあらかじめ諸筋肉のバランスを整えてからスタートするタイプの運動です。
つまりフィードフォワード制御的な側面をもつ運動です。
従ってスタート時に諸筋肉の微妙な調整を必要としますから、スタート時に失敗しやすくなります。
発話運動の始めの部分で吃音がでやすくなります。

私は吃音は恥ずべきことではないと考えるし、吃っても気にしませんが、これについては「吃音は恥ずべきことか、情けないことか?(2)」に少し書きました。
https://koiaus.hatenadiary.jp/entry/2022/01/02/164715

少し補足します。
私の推測では、発話運動にある種の失敗が起きた時、脳のある正常な部位がそれを感知・判断し、吃音を引き起こします。
脳のこの部位は発話運動の自動制御にかかわっている部位ですが、この部位は脳の高次中枢に属しますから、いろいろの入力を受けるでしょう。
吃音を怖れる気持ちが強ければ、あるいは完璧壁が強ければ、脳のその部位が失敗を感知・判断しやすくなり、吃音が頻発しやすくなるのではないか、と考えます。
また吃音を怖れる気持ちが強いと、発話運動イメージが吃音に抗って話す運動イメージになりやすくなり、それ自体が発話運動の失敗につながるでしょう。
ですから、吃音を怖れる気持ちが強いと、吃音は悪化しやすくなります。

吃音は発話運動のある微細な失敗をきっかけに起きます。
その失敗はたとえばある筋運動のタイミングがほんの0.07秒遅れたというレベルのものだろうと推測します。
人には器用不器用がありますから、こういう微細な失敗を犯しやすい人が一定の比率でいてもおかしくありません。
あなたはこういう微細な失敗を犯しやすい自分を恥ずべき人間だと見なし、自分を罰しますか?
私にいわせると、吃音は微細な失敗をきっかけに脳の正常な部位が制御論的に引き起こしたものです。
脳のその部位が微細な失敗を許容しないから、補償的に引き起こしたものです。
その意味では吃音には合理的な根拠があります。
ただし脳のその部位は運動指令の最終出力の時間調整をしている部位であって、失敗を含む運動指令の再編集の役割はもっていませんから、その対応はかえって吃音という目立った形で起きてしまいます。
それは、比ゆ的にいうと、抗原に対して自分を守る免疫機構が働いて、アレルギー反応が起き、かえって事が大きくなってしまうようなことです。
あなたはそれをあなたの人間性の問題と考え、自分を恥じ、自分を罰しますか?

発話運動は自分の考えを言葉を選んで表すものですから、その意味では随意運動ですが、しかしその細部までを意識的に制御しているかというと、そうではないでしょう。
通常の自然な発話では1モーラ(俳句の5・7・5の単位である1拍)の継続時間はほぼ0.15~0.2秒です。
1音は複数の種類の筋運動の組み合わせからなりたっていますが、その組み合わせのタイミングの許容幅は非常に狭いでしょう。
私たちはそういう細部は脳の自動的な働きにゆだねています。
一方で、私は吃音を軽減するには適正な運動イメージで練習しなければならないと主張します。
その運動イメージは各筋運動のタイミングまでをイメージするものではなく、単になめらかに調音結合して話す運動イメージです。
でも、結果的には各筋運動のタイミングの制御につながっていくものだろうと想像します。
発話運動は意識的な制御と非意識的な制御が見えないところでつながっているのだろうと想像します。

 


追記

私は団地の自治会の役員を5年ほど勤めてきた。
他にしたいことがあるから辞めたいと以前からいっていたが、役員を引き受ける人がいないので、仕方なく引き受けてきた。
私の任務はかなり多く、そのすべてをきちんとこなすのはほぼ無理だった。
そして今回、幸か不幸か、腹の立つことが起き、いろいろごたごたしたが、ついに辞任した。
私が腹を立てたもっともな理由はあったし、他にしたいことがあることは他の役員にもそれとなく知られていたから、辞任はやむを得ないと受け止められたようだ。
ただし一部のことについては引き続き協力する。
このところ私はうつ的になっており、食事をまともに食べていないし、辞任した後ろめたさもあるから、まだ晴れ晴れした気持ちにならないが、ついに解放された。

www.youtube.comEddy Arnold- Cattle Call

 

www.youtube.comAlabama - The Louvin Brothers

 

www.youtube.comOh Lonesome Me

www.youtube.comGeorge Hamilton IV - Abilene

 

www.youtube.comTennessee Waltz

 

www.youtube.comTennessee Waltz

発音が明晰だ。めりはりの効いた正確な歌い方。しぶい。

この10年間の私の吃音の経過と今後

私は昔から難発系の吃音があった。
ずっと製造の仕事をしてきたが、職場では吃音はあまり問題にならなかった。
年齢が進むにつれ、吃音は自然に軽くなった。
場慣れ、神経の鈍化のせい?
ただし「おはようございます」や「ありがとうございます」や自分の名前をいう時、ひどい難発になった。
特定の言葉では越えがたい壁があった。

60歳頃、製造の仕事を辞め、マンションの清掃のパートを始めた。
今からほぼ10年前だ。
その頃、私は発音練習した。
清掃の仕事はただ清掃していればよい訳ではなくて、住民に出あえば「おはようございます」と挨拶しなければならない。
人としてそれは当たり前である。
巨大マンションだから、不特定多数の人に「おはようございます」をいわなければならない。

私の発音練習は「吃音の軽減について(2)」に書いたやり方だった。
はっきり覚えていないが、1日に1~2時間を1~2か月続けたと思う。
その効果はでた。
私は前方から近づいてくる住民になめらかに「おはようございます」といえるようになった。
その後、発音練習していないが、効果は数年続いたと思う。

ところが、ある日、突如背後から住民に「おはようございます」といわれ、私は返答できなかった。
前方にいる住民には「おはようございます」といえるのに、急に準備なしにいわなければならなくなると、私はひどい難発に陥ってしまう。
こういうことが何度かあり、前方にいる住民に対しても「おはようございます」といえなくなってしまった。
私の解釈では、難発の運動イメージが復活し、なめらかな発話運動のイメージが崩れてしまった。

それでも私はそのままやり過ごしてきた。
口惜しい気持ちはあるが、仕方がないと考える。
吃音を恥ずべきこととは見なさないから、自分を責めることはしない。
ただし口を動かす発音練習はしなくても、どういう発話運動イメージをもつべきかという考えをもっているから、発話運動イメージだけの訓練は仕事中に少ししたと思う。
私にとって発話運動イメージとは、発話にかかわる諸筋肉の動きやバランスの具体的なイメージであって、抽象的なものではない。
発話運動は複数の運動要素のタイミングのあった組み合わせでなりたっているが、ある運動要素がタイミングよく出てこない時、その意味で諸筋肉のバランスや動きが不適切な時、それをきっかけに起きるのが吃音である、と私は考えている。
そして諸筋肉の動きやバランスは運動イメージに導かれるから、私は発話運動イメージを重視する。
しかし発話運動イメージは言葉で表わしにくい。
発話運動は諸筋肉を連続的に制御していくものである。
それはいわば多変数制御的で、アナログなものである。
こういうものは言葉で表しにくい。

やがて私の吃音は再び軽快に向かい始めた。
背後から急に「おはようございます」といわれても、瞬時に返せるようになった。
しかし前方にいる住民には相変わらず難発気味に挨拶していた。
しかしそれも徐々に軽くなり、なめらかに「おはようございます」といえる時もあれば、「お、おはようございます」という時もある。
会釈する動作に連動させるとなめらかに「おはようございます」といえることが多い。
発話運動は筋肉の運動に他ならないが、会釈などの筋肉の運動に連動する癖をつけると、なめらかに動きやすくなるのかも知れない。

一方、私は同僚に対しては「お、お、おはようございます」のように吃ることが多い。
同僚に対しては気をゆるめて話すのでかえって吃りやすくなる、またそれを改善しようとしないからそれが続いている、と私は解釈している。
以上が「おはようございます」における私の現状である。

なお、私は「おはようございます」は吃りやすいが、「こんにちは」はまったく吃らない。
「おはようございます」は口唇や喉頭などの動きの変化が激しくて、私はなめらかにいうことに失敗しやすいから、吃りやすいのだろうと思っている。

「おはようございます」以外では、住民に対しても同僚に対しても、あまり吃っていないはずである。(と、私は思っている)
意思の疎通に困っていない。

今年の団地の総会は私が司会を務めたが、概ねなめらかに話したと思う。
台詞を紙に書き、発話運動イメージを明確にしてゆっくりめに話した。
先日は団地の草刈りの後で住民に新しい入居者を紹介したが、これもなめらかに話したと思う。
一定の緊張感がある時、私は発話運動イメージを明確にしてゆっくりめに話すが、こういう時はあまり吃らない。
初対面の人と話す時もそのように話すが、意外に吃らない。

一方、親しい人とリラックスして話す時、かえって吃りがひどくなる傾向がある。
それは難発だが、昔と違って、声が詰まる時間は短い。
連発することもあるが、それは難発から派生した連発様の発音だと思う。
ただし難発自体が軽くなっているので、そう力んだ発音ではないと思う。
親しい人と話す時は発話運動イメージを明確にせずにラフに話すから吃音がでやすい、と私は解釈している。

私の吃音は多くの吃音者とは逆と思われるかも知れない。
世の中には緊張するから吃るという見方が多い。
しかし私の経験ではそうではない。
昔、急に壇上に呼ばれて多くの聴衆を前に話したことがあるが、私はかなり緊張したものの、発話運動イメージを明確にしてゆっくりめに話し、まったく吃らずに話した。
緊張がどうのという問題ではなく、明確な発話運動イメージを見失うことが問題なのだと思う。
緊張しないようにするというのはあいまいであって、あいまいな目標をたてるのは効果的とは思わない。
緊張してもよいから明確な発話運動イメージをもつことこそが肝心であり、この方が目標として具体的である。
目標は具体的であるべきだ。
心理を問題にする人は吃音を具体的にとらえていないのではないかと私は思っている。

ところで、先日、団地の会議の録音を聴いたら、ちょっと驚いた。
私は結構吃っている!
難発だ。
話す時に少し間が空く。
会議での発言は慣れているので、あまり緊張していなかったと思うが。
そしてふと思った、吃音が軽微で、吃音を気にしない人は、自分の吃音をあまり自覚しないのかも知れない、と。

私は話す時に吃音を意識しない。
吃るなら吃るでもよいと思っているから、吃るのではないかと心配することはなくなる。
私はたんに話す内容を意識しているだけである。

吃音者は吃りやすい言葉を言いやすい言葉に言い換えることがある。
私も昔はそうだった。
それは結構頭を使う作業であり、大変である。
今の私はそういう面倒なことはほとんどしない。
なるべく適切な言葉で話したいから、言い換えはしたくない。
その分、吃音がでやすくなる。
それで構わないと思っている。

私は口が速く動かない。
子供の頃から咀嚼運動がのろく、食事に時間がかかる。
やはり発音に失敗しやすい素因はあるのかも知れない。
私の吃音は完治しないのかも知れない。

それでも、昔に比べたらかなり軽くなった。
吃音で困ってはいない。
昔は外食した時に注文できなかったが、今はできる。
それなりに社会的活動をしているが、それをこなしている。
団地でいろいろなお宅を訪問する時、インタフォンで自分の名前を名乗る。
最初にかすかに間が空くが、明瞭に発音しているはずである。
私は今のままでよいと思っている。
3歳で吃音を発症し、吃音が完治しないまま生涯を閉じる、でよいと思っている。

現状では、吃音にかかわる動機はうすれている。
しかし「吃音ノート」は続けたい。
若い頃から吃音の仕組みに関心をもち、それが私の人生を通して根深いものになってしまっているからだ。
しかし私の今の生活では「吃音ノート」の更新が遅くなる。
今の私はじっくり沈潜して考えることがむずかしい。
雑音が入り過ぎる。
私はいろいろな課題をかかえており、焦点が定まらない状態にある。
それは団地の問題もあれば、私の個人的な問題もある。
それらから最優先課題を選び、焦点をしぼりつつ、ひとつひとつ撃破していかなければならないのだろう。
しかしそうなると、「吃音ノート」は少し遠ざかってしまう。

昔、佐藤大和の『単語における音韻継続時間と発声のタイミング』(1977年)という刺激的な論文を読んだことがある。
それを再読したい。
田中真一の『リズム・アクセントの「ゆれ」と音韻・形態構造』も読んでみたい。
一応買ってある。
「小脳と運動失調」という本も読んでみたい。
これも一応買ってある。
小脳失調性構音障害は小脳のどの部位に問題があるのだろう?
小児の吃音を研究したEhud Yairi の論文も読みたい。
広い意味での非流暢性からどのように吃音が発生してくるのかを知りたい。
昔からG. I. AllenとN. Tsukaharaによる『Cerebrocerebellar communication systems』(1974年)という論文にあこがれているが、語学力がないのでむずかしいか?
大脳の運動制御に小脳が加わることで、より精緻で自動的な制御になってくる。
吃音の反射性自動性はそのことと関連しているのだろうか?
また、発話運動の大脳小脳連関はいつ頃から形成されるのだろう?
吃音の発症は発話運動の大脳小脳連関が形成されて以降に起きるのだろうか?
あげていくと、いろいろ出てくる。


私は仏像・仏画を見るのは嫌いでないし、時には宗教音楽も聴く。
一種心を洗う?ような心もちでそれらに接する。
穢れの多い世の中で暮らしていると、時にはそういうひと時をもちたくなる。
私は宗教心は0だが。

昔、FM放送からジョスカン・デ・プレ作曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を録音した。
それは女性合唱だと思ったが、ある人に聞かせたら「ボーイ・ソプラノだ」という。
いわれてみるとそうだ。
それは清冽な声で、女性の声の甘ったるさがない。
その演奏は残念ながらユーチューブにはない。

次の動画にも女性の声は含まれていないと思う。
テンポがゆっくりし過ぎている感もある。
声に少しビブラートがかかっているのは官能的で、私は好きでない。
それでもこの演奏は嫌いでないから、ここに入れる。


Ave verum - Josquin des Prez - i buoni antichi

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渋すぎる曲をもうひとつ。

ジョスカン・デ・プレ - 千々の悲しみ: 演奏 冨田 一樹

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追記

私は記事を公開した後も、ちょくちょく記事を修正します。
大きな変更はありませんが。
面倒なので、履歴は記録しません。

 

DAF吃音を体験して考えたこと

私は日頃は団地や身辺の雑事に追われており、吃音のことをまったく考えていない。
人と話す時も吃音を意識していない。
すると自然に「吃音ノート」のことはどこかに消し飛んでしまう。
また、記事を書く以上はなるべく文献を読んでおきたいと思うと、書くのが億劫になる。
それで、むずかしく考えずに、記憶していること、思っていることを書こうと思う。
もともとそういうつもりでブログを始めたが、ついむずかしく考えてしまう。

私がDAFを体験したのは今から46~47年ほど前。
知人が言葉の教室の先生?あるいは言語聴覚士?のところにあるDAF装置を使わせてくれた。
それは職人的な努力でテープデッキに遅延装置をとりつけたものだった。
自分が発した音声が遅れてヘッドフォーンから聞こえる。

ここで簡略にDAFについて説明する。
DAFはDelayed Auditory Feedbackの略で、遅れた聴覚情報のフィードバック、いい換えると聴覚情報が遅れて知覚されることである。
1950年、Bernard S LeeがDAFの条件下では吃音のような話し方になるという論文を発表した。
この論文は注目され、DAFに関する研究が盛んになった。
そして吃音者には内在的な聴覚の遅れがあり、それで吃るようになるのではないかという見方がでた。
また、DAFによって吃音者の吃音が減少する場合があることも観察されたことから、DAFを吃音治療に用いようとする考え方も生まれた。

DAFによって発生する吃音をDAF吃音と呼ぶ。

まず、私はDAFを体験する前に吃音をどう考えていたかを書く。
吃音は失敗をきっかけに起きると考えていた。
吃音は失敗を訂正しようとして再び失敗するために訂正が累乗的に重なっていく現象ではないかと考えていた。
しかし後でその考えを否定するようになった。
それは吃音を直接的に引き起こす脳の部位は発話運動の遂行を高速で微調整している部位、最終出力を微調整している部位であって、発話のやり直しや再プログラミングの役割はもっていないと考えるようになったから。
また、伸発は失敗を訂正しようとして累乗的に訂正が重なっているものではなくて、たんに遂行中の運動がそのまま継続しているに過ぎないと思われたから。
ただし私は今も吃音は失敗をきっかけに発生すると考えている。
が、今の私は吃音は失敗を訂正しようとする反応ではないと考えている。
次に、吃音は反射的自動的に起きると考えていた。
少なくとも連発と伸発はそうだと考えていた。
もっと後になって難発も反射的自動的に起きると考えるようになった。
難発時に無理に発音すると連発様あるいは伸発様の発音になることがある。
それらは努力性を伴っており、反射的自動的ではない。
それらは難発から2次的に発生した発音であって、本来の反射的自動的な連発や伸発とは区別すべきだと思っている。
私は今も吃音は反射的自動的に起きると考えている。
連発も伸発も難発も、今遂行した運動が反射的自動的に継続する(あるいは繰り返される)という単純なものだが、私たちはとかくそれに抗う努力などを含む複合的なものを吃音として見ているのだろうと思っている。
なお、吃音は恐怖心で強化された条件反射の回路が形成されることで反射的に起きるという見方があるようだ。
私は恐怖心は吃音の必要条件ではないと思っているので、そういう見方はしない。
吃音は誰にも起きうる問題と考えているから、吃音は誰にも備わっている機構によって反射的自動的に起きると考える。
新たな条件反射の回路を仮定する必要はないと考える。

前置きはこれくらいにして、まず私は遅れ時間を0.15秒?くらいに設定して実験を開始した。
?がつくのは、はっきり覚えていないから。
しかし文献は少し読んでいたから、大体の見当はつけていた。
遅れ時間をいろいろ変えて実験したから、大体の遅れ時間は覚えている。
DAF装置を装着し、いろいろ思いつく言葉を発音してみた。
最初はDAFによる影響は出なかった。
しかしヘッドフォーンから出る音量を上げていくと、ついに連発が出始めた。
その音量はこの実験を続けると難聴になるのではないかと心配になるレベルだった。
骨伝導を打ち消すほどの音量がないと、DAFの影響は出ないといわれている。
DAFによって発生した連発は驚くほどに反射的自動的だった。
それをどんなに食い止めようとしても、食い止めることはできなかった。
遅れ時間を0.13秒とか0.18秒に設定しても、反射的自動的な連発が起き、それを食い止めるのはむずかしかった。
一方、遅れ時間を0.08秒とか0.25秒に設定すると、連発は発生しなかった。
DAFによる吃音では遅れ時間の大小が重大な意味をもっていると思われた。

DAFによる私の実験では、伸発や難発は発生しなかった。
DAFの影響で話しづらい時、口ごもることはあった。
私が日頃経験している難発と照らし合わせると、それは難発ではなくて、ただの口ごもりであると思われた。
DAFの条件下では、サ行音は連発になった。
/sa/が繰り返された。
通常、私はサ行音では伸発になり、/s/が引き伸ばされる。
決して連発にならない。
だからDAFによる吃音は特殊であって、通常の吃音ではないと思われた。

しかしDAF吃音は吃音の一種であると思われた。
そう見なす確定的な根拠はないが、私はもともと吃音はある失敗をきっかけに起きると考えており、DAFによる吃音はそれに合致すると思われた。
DAFによる吃音はDAFによって人為的に作り出された失敗をきっかけに起きていると思われる。
失敗を失敗と判断するには、何らかの基準があり、それと照らし合わせて失敗と判断するのだろう。
吃音を引き起こす脳の部位は一種のメトロノームのような装置を備えており、それと照らし合わせて失敗を判断するように思われる。
その基準について考えるのはむずかしい。
が、ともかく私は話す時の筋運動感覚と聴感覚との間に重大なズレが起きた時、それが失敗と判断されることでDAF吃音が発生するのではないかと想像した。
また私はもともと吃音は反射的自動的に起きると考えており、DAFによる吃音にもそれが明確に現れているから吃音の一種といってもよいのではないかと思った。

DAFには吃音を減少させる固有の効果があるのかについては、私は否定的だった。
たとえば遅れ時間を0.08秒にしたり、0.25秒にした時、私は話しづらさを感じ、聴覚情報を無視し、筋運動感覚に依拠して話すようになった。
この時、吃音は少し減少したようにも思われたが、私はそれをマスキング効果だと思った。
自分の声が自分に聞こえないように雑音を流して話すと、吃音は劇的に減少する。
それをマスキング効果と呼んでいる。
私の解釈では、雑音で自分の話す声がかき消される時、筋運動感覚に依拠して話すようになるが、その時、吃音は劇的に減少する。
DAFによる吃音の減少は、DAFの遅れ時間がどうのこうのという問題ではなく、たんにマスキング効果の一種に過ぎないと思った。

DAF吃音の研究は、吃音者には内在的な聴覚的遅れがあるのではないかという疑問、あるいはDAFによって吃音を治療しようとする方向に向かったが、やがて廃れていった。
私はDAFによって示された吃音の反射的自動的機構をこそ知りたいと思ったが、DAF研究はその方向に進まなかった。
DAF吃音は吃音を引き起こす反射的自動的機構が時間制御と深くかかわっていることを示唆しているように思われるが、DAF研究はその方向に進まなかった。
DAF研究の意義は矮小化されたが故に、廃れるべくして廃れていったように私には見える。

発話運動には一定の定速性がある。
通常の発話では1モーラの継続時間はほぼ0.15~0.2秒である。
私たちはそれを意識的に制御している訳ではないので、それを制御している自動機構があると思われる。
誰にも備わっているその自動機構が吃音を引き起こすと私は推測しているが、そのひとつの根拠はDAF吃音にあると思っている。
DAF吃音は人工的な吃音であって通常の吃音ではないが、聴覚的遅れがなくても、発話の過程である運動要素が欠落しているような場合、見方によってはある時間枠の中でその運動要素が遅れているのと同じことになる。
聴覚的遅れがなくても、運動要素の欠落などがあれば、吃音は起きうるし、それこそが通常の吃音だろうと思う。
私は吃音者には内在的な聴覚の遅れはないだろうと思っている。
私の推測でしかないが、脳の最終出力段階で発話の遂行を時間制御している脳の正常な部位がある失敗を感知した時、吃音を引き起こす。
脳のその部位はやや過敏すぎるかも知れないが、異常であるとは考えない。
正常であっても何ら差し支えない。
で、吃音のきっかけになる失敗は筋肉や神経や脳のさまざまな部位に由来しうる。
その原因を一律にいうことはできない。
たとえば大脳基底核に失敗の原因がある場合もあるといっても構わないが、吃音のきっかけになる失敗はすべて大脳基底核に原因があるとはいえないと思う。
私は口蓋裂から派生していると思われる吃音を見たことがある。
また、大脳基底核が直接的に吃音を引き起こすとは私は考えない。

このブログは吃音を考えることをテーマにしてスタートしたが、そのように範囲を限定すると、私の今の生活ではなかなかブログを更新できない。
それで、テーマをひとつ増やし、健康にかかわる記事も書こうかと今思っている。

私にとって懐かしい曲を入れる。
あまり聴く機会のない曲を入れたい。

www.youtube.com

GENE PITNEY - teardrop by teardrop

ルイジアナ・ママが有名だが、私はteardrop by teardropも好きだった。
ちょっと女々しくはあるが、今聴いてみると、やはり好きだ。

www.youtube.com

燃ゆる想い / ジャミー・クー

中学時代にラジオから流れていた。
地味な曲だが、好きだった。

 

追記

私は発話運動は基本的にはフィードフォワード制御される運動だと思っている。
発話運動のフィードフォワード制御とは、一息で話す範囲の文や句の語頭から末尾にいたるまでの全体をなめらかに展開しうるようにあらかじめ整えてからスタートするような制御の仕方だと思っている。
その整えは語頭の音が発せられる以前にスタートするが、整えができなければ口ごもったり、難発になったりすると思っている。
吃音者はとかく語頭の音だけを意識するが、それは末尾にいたるまでの全体をなめらかに展開しうるように整えることに失敗している状態であり、難発を招くと思う。

運動を継続したまま運動の誤差を修正するフィードバック制御が可能ならば、そもそも吃音は起きないと思う。
DAF吃音によって、フィードバック情報が発話運動に影響を与えることは認めうるが、それで首尾よく失敗を補正するように制御できるかというと、できない。
制御できないからDAF吃音が発生するのだ。
発話運動を自動制御する機構は脳内にあると思うが、それは基本的にはフィードフォワード制御機構だと思う。

しかしDAF吃音はよくわからない。
これは確認していないが、発音する最初の部分は骨伝導で聞こえているはずだが、その時点ではヘッドフォーンからまだ自分の声は聞こえておらず、遅れてヘッドフォーンから自分の声が聞こえるので、その時間的ズレで混乱が起きるためにDAF吃音が発生するのではないかという見方があったように記憶する。
発音する最初の部分は骨伝導で聞こえていたのかどうか?私は覚えていない。
聞こえていなかったような気がするが、定かでない。
聴覚的遅れが0.15秒ならDAF吃音が発生し、0.25秒ならDAF吃音は発生しないのは何故だろう?