吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

吃音の汎化について、および伸発について(2)

昔、私は伸発になることはなかった。
しかしいつからか無声摩擦音のサ行音やハ行音で伸発が起きるようになった。

典型例では、スーパーのレジで「さいふ」/saihu/といおうとしたら、/s/が長く伸びてしまい、はっと気がついて一旦話す行為を中断したことがある。
それは自動的な継続で、発話行為を中断することで初めて停止する。

この伸発は母音/a/の欠落を含んだ状態が継続していると見なせるから、/s(a)/が継続していると表記すればよいのだろうか?
しかし、まだ/a/の口型になっていないし、1拍分が継続するのではなくて、拍そのものが壊れている。
だから単に/s/が継続していると書けばよいのだろうか?
それとも吃音の表記はむしろ音声記号を使う方がよいのだろうか。
私のパソコンでは音声記号を入力できないから、別の記号で代用するなら、[s:]と表記したらよいだろうか?
細かいことだが、私は表記の仕方で迷ってしまう。

通常、無声摩擦音は伸発になる。
連発にならない。
一方、声道をいったん閉じてから破裂的に息や声を出すような区切りのある音は連発になるが、伸発にはならない。
声道を閉じた状態で難発になることはありうるが、伸発にはならない。
これは考えてみると、当たり前と思われる。

ただしDAFによってサ行音が連発になることがある。
この場合、伸発にはならない。
しかしDAFは人口吃であって、通常の吃音ではないと思う。
これについては別の機会に書こうと思う。

DAFはDelayed Auditory Feedbackの略で、かいつまんでいうと自分の声が実際より遅れて知覚されること。
特殊な装置を使って、自分の声が実際より遅れて聞こえる状態で話すと、筋運動感覚と聴感覚との間にズレが生ずるが、この時に吃音が発生する。
この装置を使うと、非吃音者にも吃音が発生する。
それは反射的自動的な吃音で、自分で制御できない。

/sa/は、単純にいうと子音/s/を発する過程と母音/a/を発する過程の2段階からなる。
子音/s/は、下顎を上げて上顎に近づけ、舌の前部分を上側の歯茎あたりに接近させ、息の通り道を狭めながら息を流すことで発せられる。この時、声門は開いている。
母音/a/は、下顎を下げて口を開き、舌を引き下げて口腔内を広くし、声門をゆるく閉じて左右の声帯がゆるく接触しているところに息を流し、声帯が振動することによって発せられる。
通常の発話は、大ざっぱな目安であるが、/s/の継続時間はだいたい0.07秒くらい、/a/の継続時間はだいたい0.1秒くらい。
これは話す速度によって変わるが、脳はそれぞれの拍(モーラ)の継続時間がほぼ一定になるように自動制御している。
上記では/sa/の継続時間は0.17秒になる。

私の推測だが、/s/の継続時間が0.07秒を過ぎても母音/a/が出ない時、つまり声帯が振動すべきタイミングで振動を開始しない時、脳はこれを失敗と見なし、後続する運動指令の発射をキャンセルまたは延期してしまうのではないだろうか?
この脳の部位は遂行中の運動指令の発射継続時間を制御しているが、それは後続する運動指令への切り替え制御と同じではないだろうか?
たとえばA→Bと推移する運動において、Aの継続を短くすることはBへの切り替えを早くすることであり、逆にAの継続を伸ばすことはBへの切り替えを遅らせることと同じではないだろうか?
いい換えると、Bへの切り替えを遅らせることはAを継続させることと同じではないだろうか?
仮にAに失敗がある時、脳のこの部位は後続するBの運動指令の発射をキャンセルあるいは延期するのではないか、と私は乱暴に推測するが、これは脳のこの部位はAの継続時間を制御する時にBへの切り替えを遅らせることを通常の機能として行っていると思われるからである。
吃音では何故失敗を含む運動が継続してしまうのかという疑問は、脳のこの部位の通常の機能を考えると、説明できるかも知れない。
私はそう思っている。

/s/から/a/へ切り替わるタイミングの許容幅は非常に狭いだろう。
その許容幅から外れることは極めて微細な失敗であっても、それをきっかけに吃音という大きな結果がでてくる。
微細な失敗に対して、脳の正常な部位が反応して吃音という大きな問題を引き起こしてしまう。
私はそう思っている。

ここで、/sa/の時間経過に関する単純な図を入れる。

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正常な/sa/はBのような時間経過になると思う。
/s/を発している最中に/a/が開始され、/s/と/a/が共存している過度的過程があるはずである。
一方、Aのような運動イメージをもっていると、おそらく/a/への切り替えのタイミングに失敗するのではないだろうか?

ハ行音でも、私の体験を解釈すると、母音が出るべきタイミングで出ないから、伸発が起きていると思われる。
つまり、声門が開きっぱなしであるため、声帯を振動させることなく息が通過してしまうから、伸発が起きていると思われる。
これも大ざっぱな目安でしかないが、通常の発話では、/h/の継続時間は0.07秒くらい、/a/の継続時間は0.1秒くらい。

ハ行音では息の通り道が広いので早く息が切れてしまうから、長い伸発にはならない。

また、日本語には母音の無声化という現象がある。
たとえば「袋」/フクロ/において、通常の発音では、/フ/は息だけの音で、母音が無声化する。
つまり/フ/では、声門を開きっぱなしにし、声帯が振動しないまま、息を流す。
それが正常な発音になる。
ところが、母音が出るべき時に出ないことに過敏になっている吃音者は、この母音の無声化にも反応して、/フクロ/で吃ることがあるかも知れない。

以上は、母音が出るべきタイミングで出ないことをきっかけに伸発が起きていると思われる例である。
この伸発が起きる時、吃音者は母音が出るべき時に出ないということに過敏になっている。

上に書いた伸発はすべて自動的に起きてしまう感があるが、もっと努力性を伴った伸発?もある。

歌川(仮称)君には重度の難発があるが、自分の名前をいう時、「うーーー」をいい続ける。
一向に次の「た」が出てこない。
これは難発があって「う」すら出ないが、それでも努力して無理に声を出すと、「うーー」になってしまう。
これは以前に「連発について」で書いたような、難発から派生する話し方だと思う。
難発それ自体は自動的に起きてしまうが、難発から派生した努力性を伴った伸発?は自動的に起きるものではない。
連発もそうだが、自動的に起きる伸発と難発から派生する努力性を伴った伸発?は区別しなければならないと思う。

追記

従来、私は発話の各運動部分の組み合わせのタイミングの失敗をきっかけに吃音が起きるのではないか、と書いてきたと思う。
しかも吃音を直接的に引き起こすのは発話運動内部でタイミングを制御する脳の部位であって、この部位は正常である、ということも書いてきたと思う。
ここには矛盾があるのではないか、という指摘があってもおかしくない。
私は今までの記事を読み返して誤解のないように表現を修正するかも知れない。

私が推測しているのは、次のことである。
吃音を直接的に引き起こすのは、発話運動において拍(モーラ)の継続時間をほぼ一定に保とうとする脳の部位ではないかということ。
それは自動制御的に働くこと。
それは運動指令の切り替えのタイミングを制御しているから、タイミング制御機構であること。
しかしこの機構は各筋肉ごとに個別に収縮弛緩のタイミングを制御しているとは思われない。
1/100~1/1000秒のオーダーで敏速に働くタイミング制御機構が各筋肉ごとに個別に収縮弛緩のタイミングを制御するのは困難だろう。
このタイミング制御機構は発話運動のプログラム作成にかかわっている訳ではない。
脳のいろいろな部位が協力しあって発話運動をプログラミングし、それをある程度まとめた形にした上で最終出力段階のタイミング制御機構に送り出す。
しかし、タイミング制御機構が受け取ったプログラムは一部の筋収縮の指令が欠損したプログラムかも知れない。
タイミング制御機構はそのプログラムを稼働させ、聴感覚あるいは筋運動感覚によって一部の筋収縮の指令が欠落していることを感知するや、やむない措置として結果的に吃音を引き起こす。
だから、問題はタイミング制御機構が受け取ったプログラムの内容にある。
そのプログラムはもともとタイミング制御機構が作ったものではない。
タイミング制御機構はあくまで最終出力段階でタイミング制御を専門に行う機関に過ぎない。
小脳は大脳と連携しつつ運動の微調整を行っているという見方があり、上記の推測はこの大脳・小脳連関とつながっている。
私が最も知りたいのは発話運動と大脳・小脳連関の関係である。
音声学にも関心があるが、関心の行きつく先は大脳・小脳連関である。
古い図だが、もう45年ほど前からこの図に惹きつけられている。
とくに小脳中間部に惹きつけられている。

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吃音の軽減について (2)

 吃音は発話運動の流暢性のある種の失敗をきっかけに2次的に起きるもの、と私は推測している。
 従って、吃音が起きないようにするにはたんに発話運動の流暢性に失敗しなければよい、と考えている。
 流暢性に失敗しやすい何らかの素因はあるかも知れないから、100%を求めることはできないかも知れない。
 ただ吃音者は吃音を発症してから、適正な運動イメージを見失い、そのために吃音がいっそう悪化することが多いように思われる。
 少なくとも適正な運動イメージを回復し、それによって発話運動の流暢性をできるだけ回復すること、それが私が考える吃音の軽減法である。
 そのためには、正常な発話運動をよく理解する必要があると思う。
 それにのっとって正常に発話運動する必要があると思う。

 私は基本的には通常の発話の仕方とは違う発話の仕方で練習することはしない。
 通常とは違う発話の仕方で練習すると、実際の会話の場面でギャップを感じ、つまづきやすいのではないかと思うから、そういう練習は避ける。
 発話は通常のスピードで行う。
 ただし、10年前に私が試みた練習法では語尾を伸ばすやり方をした。
 これは通常の発話の仕方とは違うが、後で説明する。 

 ほぼ10年前、私は次のように考えて発音練習をした。

1.吃りやすい、よく使う重要な言葉を5~6だけ厳選し、それだけを集中的に練習する

 それは実践性のある会話体の言葉、たとえば次のような言葉である。

 ・おはようございます
 ・あきよしはるひこともうします
 ・ありがとうございます
 ・よろしくおねがいします
 ・はちおうじにすんでいます
 ・しつれいします

 こういう厳選した言葉だけを集中的に練習した。
 その理由は、
 ①練習の効果を確認しやすい。
 ②効果/練習量の比が大きい。
 もし練習して効果がでたら、よく使う重要な言葉が楽にいえるようになるのだから、たまにしか使わない言葉が楽にいえるようになるよりも、効果は大きい。
 かつ厳選された少ない言葉だけを集中的に練習するのだから、多くの言葉を練習するよりも、練習量は少くないだろう。
 従って効果/練習量の比が大きい。
 吃りやすい、よく使う重要な言葉が楽にいえるようになれば、精神的にもかなり楽になるはずだ。
 ③その効果は他の言葉にも波及するかも知れない。

2.人物の画像をいろいろ用意し、それを本物の人物と見て、画像に向かって練習する

 実際の場面に近い状態で練習する。
 発話運動は語頭の音を発する以前にすでに始まっている。
 事前の運動なしに急に語頭の音が出る訳ではない。
 しかし事前の運動は素早いし、自覚しづらい。
    が、この運動こそが重要であり、これに失敗すると難発になる、と私は思っている。
 だから事前の運動をスタートするところから自覚的に練習する。
 つまり、人物の画像を見たところをスタート点とし、そこから連綿とつながる発話運動を練習する。
 発話運動には一定のスピードがある。
 語頭の音を発するまでの運動にも適正なスピードがあり、そこにわずかのとどこおりやためらいもあってはならない。

3.語頭の音にとらわれずに、言葉全体をイメージしながら、末尾に向かう運動イメージをもって話す 

 といっても、漠然としており、イメージしづらいだろう。
 たとえば唱歌「海」の”松原遠く”を歌う時、まず語頭の「ま」を意識するというよりは、”松原遠く”のメロディ全体をイメージしながら歌い始めるだろう。
 通常の発話は歌うこととは違うが、全体をイメージして話すことは歌うことに似ている。
 胎児は母親の体内の羊水の中で母親の話し声の韻律を聴き取っているという。
 喃語期の幼児はでたらめな言葉を話すが、しかしイントネーションだけはしっかり習得している。
 幼児はまず発話を音楽的に習得するのではないか、ということは興味深い。

 語頭の音を意識すると難発になりやすいということは、私の体験からいえる。
 以前の記事「調音結合と吃音について - 吃音ノート」で、語頭の音を意識すると調音結合が壊れる、と書いた。
 「おはようございます」をいう時、語頭の「お」を意識することは、調音結合のある「おはようございます」全体から分離された単独の「お」を意識することであり、それは調音結合を壊す。
 「おはようございます」は「お」から始まるのだから「お」を意識するのは当たり前だと思いがちだが、そこに落とし穴があると思う。
 また、語頭の音を発する前の段階で、各筋肉が協調しながら適正なバランスとスピードをもって運動を開始するが、調音結合のある「おはようございます」をいう前の諸筋肉のバランスと単独の「お」をいう前のそれは微妙に違うのではないか、と私は思っている。
 たとえば筋肉Aに関しては両者はほぼ同じだが、筋肉Bに関しては両者は異なるということがあるのではないか、と私は思っている。
 非常に似た分かれ道があり、吃音者は吃音を体験するととかく分析的になり、調音結合を欠いた道へ入ってしまうために、運動のなめらかさがいっそう損なわれ、症状が悪化してしまうのではないか、と思う。

 ここで、図を入れる。
 もっとよい図があればよいが、今のところ思いつかない。

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「お早う」の運動イメージ図2

 上の図で、緑色、紫色、水色、黄色の図形は、それぞれ狭義の「お」、「は」、「よ」、「-」をいう運動である。
 Aは不適正な筋運動のイメージ図である。
 まず「お」をいい、次に「は」をいい、というように分離された音を発する運動イメージが単純につながっている。
 おまけに語頭の「お」を発する以前に開始されている発話運動のイメージが貧弱である。
 Bは正常な筋運動のイメージ図だろうと思う。
 たとえば「お」をいう過程には、後続する「は」や「よ」や「-」の筋運動の準備も含まれている。
 かつ、部分的には少なくとも「は」をいう筋運動と共存している。
 また、こういう調音結合は筋運動のレベルでは「お」を発する前の段階からすでに始まっている。
 こういうことを示したいから図に書いたが、よい図ではない。
 音声の時間経過を仮に0.15秒ごとに区切ったが、各音の継続時間はほぼ一定である。
 これはモーラという概念に関係している。
  *いずれ調べた上で、モーラなどの基本用語について書こうと思う。
 私たちは各音の継続時間を意識的に制御している訳ではなく、脳の自動制御にゆだねている。
 発話運動はタイミングの精度を要する厳しい運動だが、反射や自動制御の助けを借りているから、私たちはあまり意識せずに発話しえている。
 随意運動の内部にひそむ反射や自動制御にもっと注目すべきだと思うが、心理学にとらわれている人たちはそういうことは思いもよらないのだろう。

 しかし語頭の音にとらわれずに、言葉全体をイメージしながら末尾に向かう運動イメージをもって話せ、といわれても、具体的にどうしたらよいかわかりにくいだろう。
 それで、私は次のように練習した。

 おはようございますうーー

 つまり語頭を意識するのではなく、むしろ語尾を志向することを意識するために、あえて語尾を伸ばして発音練習した。
 それは語頭の音にとらわれずに末尾の「う」に向かって進む運動イメージを明確にするためであって、語尾を伸ばすことが目的ではない。
 だから実際の会話の場面では語尾は伸ばさない。
 語頭の音にとらわれずに末尾に向かってなめらかに流れる運動イメージが定着したらOKなので、そのために何度も練習する。

 しかし以上でも、まだ運動イメージが漠然としているのかも知れない。
 もう少し肉づけして具体化した方がよいかも知れない。
 10年前、私はさらに次のことも加味して発音練習した。

4.2拍目に力点をおいて話す

 発話運動は2拍からなるフットという単位で進むという説があり、これは定説化している。*1
 たとえば「おはよう」において、(おは)は1フット、(よう)も1フットである。
 (おは)は1フットなので、「お」と「は」に分離できない。
 調音結合との関連でいうと、(おは)は調音結合の度合いが大きい、ということになるかも知れない。
 ~
 また、佐藤大和の「単語における音韻継続時間と発声のタイミング」(日本音聲学会音声研究会、昭和52年度資料集)で、単語内の音韻の継続時間は短・長・短・長・短・長・・・のリズムをなしている、という仮説が提起されている。
 この研究はその後どう検証され、どう引き継がれていったのか、私は知らないが、興味がある。
 この仮説は私の実感と合っているように思われる。
 この仮説によると、「おはようございます」において、「お」の継続時間は短く、「は」の継続時間は長い。
 しかし各音韻の継続時間を意識的に制御するのは無理だろう。
 それは1/100~1/1000秒のオーダーの制御だろう。
 従って、2拍目はとくに明瞭に発音する、または2拍目をやや強めに発音するというくらいでよいと思う。
 これは2拍目にアクセントがあるということではないので、2拍目のピッチを上げるという ことではない。 
 語頭に近い部分が大事だから、4拍目etc.はあまり気にしなくてよいだろう。
 音の強弱または明瞭度をフォントサイズで示すと、
  おようございます
のようになる。
 以上が正常な発話運動の規則を示しているのであれば、それにのっとって発話すると発話はより流暢になる、と思われる。

 以上の1~4を踏まえ、人物の画像 (実際の人物でもよい) に向かって、イントネーションのイメージを母体にしつつ、語頭の音を意識するよりは語尾の音をめざして調音結合しながらなめらかに進む運動イメージを明確にするために語尾を伸ばし、かつ2拍目はとくに明瞭に発音して、

 ・おようございますうーー

 ・あよしはひこともうしますうーー

 ・あがとうございますうーー

 ・よしくおねがいしますうーー

 ・はおうじにすんでいますうーー

 ・しれいしますうーー

を筋運動イメージがしっかり定着するまで繰り返し練習する。

 くどくどしい説明を加えたのは、練習の意味を理解しないと練習の効果が弱くなるのではないか、効果が継続しないのではないか、と思うからだ。

 この方法は、少なくとも私においては効果があったし、その効果はある程度継続している。
 まだ書きたいことがあるが、それは次回にまわす。

唱歌 「海」♪松原遠く消ゆるところ 

youtu.be 

*1 
 脳は複数の運動指令をまとめて1セットにして扱うことをよく行っているのかも知れない。
 以前の記事「連発について」で、/ta/の生成過程を3段階からなると見て書いたが、「た」の連発では3段階が繰り返される。ただし母音は欠落している。
 これは、この3段階を1セットとして扱う脳の部位が吃音を直接的に引き起こしていることを示唆しているのかも知れない。

追記
 11/15、フットや2拍目の強調について、書き加えた。 

映画「英国王のスピーチ」を観て

私はアマゾン・プライムの会員なので、一部の映画やテレビ映画を無料で観ることができる。
たった今、「英国王のスピーチ」(字幕版)を観て、ちょっと涙ぐんでいる。
原題は「The King's Speech」。
ここで英国王とはジョージ6世のことだ。
即位する前はヨーク公アルバート王子だった。
彼は幼いころから吃音があった。
しかし王族だから、スピーチする場面が時々あり、困りぬいた彼は言語療法士のライオネル・ローグを訪ねた。
ローグはかつて演劇をやっていた人物で、医者ではない。
ローグは平民、アルバートは王族だが、ローグは対等の関係で対応したいと申しで、アルバートはそれを断った。
中途半端な状態で吃音の治療が行われた。
アルバートは吃音が治らないまま国王に即位し、ジョージ6世を名乗った。
しかもナチスドイツが台頭してきた時代で、ついにドイツと開戦することになった。
ジョージ6世はいよいよ国民に向かってスピーチすることになり、一旦関係が切れたローグにスピーチに立ち合ってほしいと頼んだ。
そして、時々難発になりながらも、世界の秩序と平和を守るという崇高な目的のために国民は団結して立ち向かってください、という趣旨のスピーチをした。
それは国民に感銘を与えたようだ。
ローグが「スピーチに間が空くと威厳がでます」と慰めると、ジョージ6世は「私は最も間の長い国王だ」と嘆きと怒りの声でいった。
しかしそれは「私は最も威厳のある国王だ」というユーモアとも受け取れる複雑な言葉だった。
ジョージ6世とローグは生涯の友となったという。

この映画ではマスキング効果のこともさりげなくでてくる。
歌うように発音するという手法もでてくる。
ジョージ6世が練習で読む原稿には音の高低または強弱の変化を示すような記号が書いてあったが、昔、私も音読で発音練習した時はそういう記号を書き入れたことがある。
それは発話運動イメージをある程度明確にする。
しかしその発音練習の効果は一時的なもので、その後、吃音が復活してしまった。
最後のシーンでは、ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章が流れる中、スピーチに立ち合ったローグがジョージ6世の前で指揮をするように手をゆっくり振っていたのが印象的だった。
この映画は吃音をもった国王がかかえる心労をよく表しているが、ちょっと滑稽さも感じた。
国王という象徴的で不自由な身分と平民という自由な身分の対比が描写されていて、ちょっと哀感のあるおもしろみも感じた。
ジョージ6世役のコリン・アンドリュー・ファースも、ローグ役のジェフリー・ロイ・ラッシュも、好演していると思う。

国王のように威厳を求められる地位にありながら吃音があったら、どんなに大変だろう。
実は、昭和天皇は若い頃に吃音矯正所に通ったことがある、と読んだことがある。
今、それを確認できないので、これは定かでない。
仮にそれが事実だとすると、昭和天皇はかなりご苦労されただろうと思う。
また、誤解もされてきただろうと思う。
昭和天皇も戦争を体験し、軍部が独走する状況の中で、おそらくジョージ6世以上に大変な思いをされた。
こういうことを書くと、不敬罪になるだろうか?
ならば、ジョージ6世が吃音者だったことを明かすのも不敬に当たるだろうか?
バイデン大統領が吃音者だったことを明かすのも、田中角栄が吃音者だったことを明かすのも、不敬に当たるだろうか?
吃音はあってはならないもの、隠すべきものだろうか?

*インターネット上には昭和天皇の吃音をあざ笑うような記事がある。
 昭和天皇どもりすぎワロタwwwwwwwwwwwwww

追記
バイデンは吃音者だったということで彼を好意的に見ることはしない、私は。
彼は優れた政治家であるとは思わない。
卑劣なところすらあると思っている。

 

 

 

 

吃音者は「自分の声を誰も聞いていない」と信じると吃音が出なくなる?

GIGAZINEニュース(2021.10.14)で、上記の研究結果が出たことが報じられた。
https://gigazine.net/news/20211011-adults-stutter-stop-private-speech/

science alertというサイトでは原文が紹介されている。
https://www.sciencealert.com/study-shows-adults-who-stutter-stop-if-they-think-no-one-is-listening
その情報元は、Journal of Fluency Disorder という流暢性障害に関する専門誌のようだ。
この専門誌は歴史があり、有名だ。

ところで、吃音のある成人は「自分の声を誰も聞いていない」と信じていると吃音が出なくなるということはどう解釈すべきだろう?
これに関連しそうなこととしては、吃音者は独り言では吃らないということも以前からいわれている。
私は独り言はあまりいわないし、まして吃りそうな言葉で独り言をいうことはない。
自宅で発音練習した時、吃りやすい言葉ではやはり吃ってしまうことが多かったが、これは自然に自発的に出てくる言葉ではないから、なるほど独り言ではない。
ともかく上記について、心理学者は対人恐怖や緊張が吃音を引き起こすと解釈するかも知れない。
しかし私の体験では対人恐怖や緊張といえるほどのものは感じていない。
ではどう解釈すべきか?

人に対して話す時、相手に聴こえるように話す訳だが、その時、聴覚を大いに働かせながら話す。 *注1
相手に自分の声がどう聴こえているかを意識しながら話す。
発話運動は本来は筋運動感覚に基づいて遂行されるが、吃音者は聴覚に過大なウェイトをおいて話す。
発話運動は本来は一気果断に遂行されるものだが、吃音者は発話運動そのものよりも、聴覚にウェイトをおいて話すのではないだろうか。
発達した吃音者は聴覚によって発話運動の各運動部分の組み合わせのタイミングの失敗、とくに母音がでるタイミングの失敗を過敏に感知する。
それで吃りやすくなるのではないかと私は思っている。

吃音者は自分の話し声が聞こえない状態で話すと吃らないということも以前から知られており、これはマスキング効果といわれている。
聴覚が働かない状態で話すと吃らない。
それは聴覚に阻害されずに筋運動感覚に基づいて話しているということだと思うが、この時は吃らない。
表題の研究結果はマスキング効果と関連していると思う。

また、ささやき声では吃らないということとも関連していると思う。

 

*注1 ここでいう聴覚は必ずしも大脳の聴覚野の働きをさしているとは限らない。
    小脳にもいち早く聴覚情報が入っていると読んだことがある。
    その聴覚情報はタイミング制御に利用されているのかも知れない。

 

吃音の軽減について (1)

私は吃音の原因や仕組みに関心があるが、実は吃音の治療にあまり関心がない。
吃音の原因や仕組みがわかれば、吃音の治療法も徐々に明らかになっていくと思うが、それはまだ先の話しだと思っている。
それに私は吃音が完治していない。
若い頃に比べると吃音がかなり軽くなっているが、それでもまだ吃っている。
こういう私だから、吃音の治療について書く資格はないと思っている。

ただ、若い頃に比べると吃音が軽くなっているのは事実だ。
私の仕事の現場にはいろいろな会社の人が入っているが、穏やかな人間関係があると思う。
また居住地の自治会では役員を務め、多くの人と接しており、会合でも発言している。
時には議長役も務める。
これらのことに私は苦痛を感じていない。
また、私は吃ってもそれを恥ずべきことと思わない。
少し話し方がたどたどしくても、それをご愛敬と思っている。
だから、吃音を軽減する試みをしていないし、そのことに関心をもっていない。

しかしインターネットを見ると、吃音で苦しんでいる人はたくさんいる。
それを見ると、何とかしてあげたいと思う。
私も若い頃は苦しんだから、彼らの苦しさはわかる。
が、多くの吃音者は吃音の原因・仕組みに関心がないようだ。
吃音を治すには正常な発話運動について深く理解する必要があると私は思うが、
そういう面倒なことを敬遠しているように見える。
手っ取り早く吃音を治したがっているように見える。
私はそこに不満を感じるが、彼らの苦しみはわかるので、吃音の治療、というより吃音の軽減について、今の私の考えを書こうと思う。
まだ時期早々だし、まとまりのない文になるが。

まだ20代の頃、我流で発音練習し、吃音をほぼ消滅させたことがある。
それは苦手な言葉を何度も何度も発音するような練習だったと思う。
しかししばらくしてから吃音が復活した。
吃音を一時的に治すのはそうむずかしいことではないが、しばらくすると吃音は復活する。
それが吃音治療のむずかしさだと思う。

インターネットでは吃音治療をかたる宣伝がよく目につくが、問題は治療の効果が一時的なものではなく、どこまで継続するかということだ。
治療者はどこまで患者をフォローアップしているか、追跡調査しているか、その上で治療効果を評価しているか、それを示すべきだと思う。
それがないのであれば、インチキというべきかも知れない。

私は精神論者ではない。
精神のもち方で吃音が起きるとは考えていない。
従って、精神のもち方で吃音が治るとも考えていない。
私はあいまいさをかなり嫌う。
吃音はストレスで起きるというあいまいな説明も嫌う。
そういうあいまいないい方で説明できていると思う頭の仕組みがわからない。
一見もっともらしいが故にそれで満足させてしまうあいまいな言葉を私は思考停止語と呼びたい。
具体的に考えないと、吃音は永久に解決できない。

吃音は筋肉の制御という具体的な問題だと考える。
吃るまいとするのは否定的なあり方だ。
否定形は抽象的であって、ものごとを具体的に示さない。
こう筋肉を制御するという具体的な肯定形で示さないと、効果的な治療はできないだろう。
具体的であることが肝心だと思う。
そのためには正常な発話運動を深く理解する必要があると思う。

吃音は発話運動を構成している運動部分の組み合わせのタイミングに失敗することで起きるのではないか、と若い頃から思っている。
タイミングの失敗が問題になるのは、発話運動にはある程度定まったスピードがあり、そのスピードを守ろうとする制御機構があるからだ、と思う。
1拍(モーラ)の継続時間がほぼ0.15~0.2秒になるように制御する機構があるから、タイミングの失敗がシビアな問題になる、と思う。
煎じ詰めると、吃音はタイミングの失敗からスピード制御機構によって2次的に発生するものということになる。
また、発話運動を分析的に捉えると吃音は悪化しやすい、と思っている。
たとえば呼吸運動の訓練をするのは発話運動の一部をとりだす分析的なやり方であって、好ましくないと思っている。
発話運動を統合的に捉えることを重視する考え方は今も変わっていない。

また、発話運動は随意運動だが、それには階層性があり、その内部には自覚されにくい反射的・自動制御的な部分も含まれている、と考えている。
吃音はその自動制御的な部分で起きる問題である、と考えている。
これも今と考えが変わっていない。

発話運動は基本的にはフィードフォワード的に制御される。
これも昔から考えていた。

語頭の音を意識すると難発になりやすい、ということも以前から思っていた。
昔の学生運動の活動家はアジ演説で「我々はーー」のように語尾を伸ばす言い方をしていたが、そういう言い方では吃らない、ということにも気がついていた。
その後、新たに思いついたのは調音結合の問題である。

私は工場で機械を扱う仕事をしてきたので、吃音が仕事の支障になることはなかった。
だから吃音の治療は考えなかった。
が、10年ほど前に退職し、マンションの清掃のパートをすることになった。
この仕事はただ清掃をしていればよいということではなく、マンションの住民に出会ったら「おはようございます」と挨拶しなければならない。
ところが私は「おはようございます」を苦手としており、1音も発することができないこともあった。
それで発音練習を始めた。
その練習法は前記したようないろいろな考えに基づいている。
その期間は覚えていないが、せいぜい1、2か月くらいではないかと思う。
少なくとも私の場合、その効果はあった。
しかも効果はかなり持続した。