吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

素人が吃音研究に首を突っ込むことについて(2)

1.自分の吃音を観察できるということ (つづき)

吃音は心因で説明されることが多いが、私はあわてていなくても、また緊張していなくても吃る。
また緊張していても吃らないこともある。
私は自分の体験によって緊張やあわてることは吃音の必要条件ではないと考えている。
しかし緊張すると吃るという吃音者もいる。
これについては、吃る時の条件を調べ、仮にAは(緊張、x、y、z)という条件下で吃り、Bは(x、z)という条件下で吃るとすると、そこに含まれる共通因子を抽出することで吃音の本質的な因子を探り出すことができるのではないかと思う。
吃音者が自覚しえていない因子を探り出すことはむずかしいが、それが重要だと思う。
吃音はストレスで起きるという人もいるが、これについても上記と同じことがいえるだろう。

吃音者は苦手な言葉を話す時に吃ることを予期するが、予期するとほぼ確実に吃る。
これは私の体験でもいえる。
吃音の予期は心理学者によって吃る恐怖や不安というような情緒の問題とみなされることが多いが、私の体験から判断すると、それは運動イメージの問題であって、情緒の問題ではない。
しかし吃る恐怖を感じている吃音者も少なからずいるだろう。
これについても、上記したように吃る時の因子を列挙し、どの吃音にも共通する因子をあぶりだしていけば、明らかになっていくと思う。

難発では声門の閉鎖が起きると考える人がいるが、私の体験では、難発時に声門が開いている場合もある。
これはどういう音を発する時に難発になるか、またその音を発する時のどのプロせスで難発になるかによって、違ってくると思う。
声門が開いた難発の時に無理に力んで話そうとすると、声門の強い閉鎖が起きるが、これは無理に力んで話そうとしたために2次的に起きることだと思う。

連発と見られているものには、難発時に無理に話すことで2次的に連発的な発音になっているものが少なからずあると思う。

しかし、自分の体験を誤って解釈する可能性はある。
だから体験によって主張することには慎重でなければならない。
その通りだ。
また、体験していても、それをどう解釈したらよいか、わからない場合もある。
以前は、難発は話そう-話すまいの葛藤によって起きるのかも知れないと私も思っていた。
以前は、吃音は失敗を訂正しようとしてまた失敗するという失敗と訂正の連鎖ではないかと思っていた。
しかし文献を読み、疑いを重ねることで、考え方が代わっていった。 
だから、私は体験一辺倒ではないつもりだ。
ただし体験に照らし合わせるから、先入観や概念の一人歩きで考えることからは免れていると思っている。

私は吃音者の組織に所属していたことがあり、結構多くの吃音者を見ている。
口蓋裂から派生したと思われる吃音も見ている。
パーキンソン病症候群かと疑われる仮面顔の高齢者の吃音様の話し方も見ている。
また私はDAFによる吃音を自ら実験したことがある。
しかし私は素人だから、体験の範囲が限られているし、観察できることも限られている。
それを残念に思う。