吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

この10年間の私の吃音の経過と今後

私は昔から難発系の吃音があった。
ずっと製造の仕事をしてきたが、職場では吃音はあまり問題にならなかった。
年齢が進むにつれ、吃音は自然に軽くなった。
場慣れ、神経の鈍化のせい?
ただし「おはようございます」や「ありがとうございます」や自分の名前をいう時、ひどい難発になった。
特定の言葉では越えがたい壁があった。

60歳頃、製造の仕事を辞め、マンションの清掃のパートを始めた。
今からほぼ10年前だ。
その頃、私は発音練習した。
清掃の仕事はただ清掃していればよい訳ではなくて、住民に出あえば「おはようございます」と挨拶しなければならない。
人としてそれは当たり前である。
巨大マンションだから、不特定多数の人に「おはようございます」をいわなければならない。

私の発音練習は「吃音の軽減について(2)」に書いたやり方だった。
はっきり覚えていないが、1日に1~2時間を1~2か月続けたと思う。
その効果はでた。
私は前方から近づいてくる住民になめらかに「おはようございます」といえるようになった。
その後、発音練習していないが、効果は数年続いたと思う。

ところが、ある日、突如背後から住民に「おはようございます」といわれ、私は返答できなかった。
前方にいる住民には「おはようございます」といえるのに、急に準備なしにいわなければならなくなると、私はひどい難発に陥ってしまう。
こういうことが何度かあり、前方にいる住民に対しても「おはようございます」といえなくなってしまった。
私の解釈では、難発の運動イメージが復活し、なめらかな発話運動のイメージが崩れてしまった。

それでも私はそのままやり過ごしてきた。
口惜しい気持ちはあるが、仕方がないと考える。
吃音を恥ずべきこととは見なさないから、自分を責めることはしない。
ただし口を動かす発音練習はしなくても、どういう発話運動イメージをもつべきかという考えをもっているから、発話運動イメージだけの訓練は仕事中に少ししたと思う。
私にとって発話運動イメージとは、発話にかかわる諸筋肉の動きやバランスの具体的なイメージであって、抽象的なものではない。
発話運動は複数の運動要素のタイミングのあった組み合わせでなりたっているが、ある運動要素がタイミングよく出てこない時、その意味で諸筋肉のバランスや動きが不適切な時、それをきっかけに起きるのが吃音である、と私は考えている。
そして諸筋肉の動きやバランスは運動イメージに導かれるから、私は発話運動イメージを重視する。
しかし発話運動イメージは言葉で表わしにくい。
発話運動は諸筋肉を連続的に制御していくものである。
それはいわば多変数制御的で、アナログなものである。
こういうものは言葉で表しにくい。

やがて私の吃音は再び軽快に向かい始めた。
背後から急に「おはようございます」といわれても、瞬時に返せるようになった。
しかし前方にいる住民には相変わらず難発気味に挨拶していた。
しかしそれも徐々に軽くなり、なめらかに「おはようございます」といえる時もあれば、「お、おはようございます」という時もある。
会釈する動作に連動させるとなめらかに「おはようございます」といえることが多い。
発話運動は筋肉の運動に他ならないが、会釈などの筋肉の運動に連動する癖をつけると、なめらかに動きやすくなるのかも知れない。

一方、私は同僚に対しては「お、お、おはようございます」のように吃ることが多い。
同僚に対しては気をゆるめて話すのでかえって吃りやすくなる、またそれを改善しようとしないからそれが続いている、と私は解釈している。
以上が「おはようございます」における私の現状である。

なお、私は「おはようございます」は吃りやすいが、「こんにちは」はまったく吃らない。
「おはようございます」は口唇や喉頭などの動きの変化が激しくて、私はなめらかにいうことに失敗しやすいから、吃りやすいのだろうと思っている。

「おはようございます」以外では、住民に対しても同僚に対しても、あまり吃っていないはずである。(と、私は思っている)
意思の疎通に困っていない。

今年の団地の総会は私が司会を務めたが、概ねなめらかに話したと思う。
台詞を紙に書き、発話運動イメージを明確にしてゆっくりめに話した。
先日は団地の草刈りの後で住民に新しい入居者を紹介したが、これもなめらかに話したと思う。
一定の緊張感がある時、私は発話運動イメージを明確にしてゆっくりめに話すが、こういう時はあまり吃らない。
初対面の人と話す時もそのように話すが、意外に吃らない。

一方、親しい人とリラックスして話す時、かえって吃りがひどくなる傾向がある。
それは難発だが、昔と違って、声が詰まる時間は短い。
連発することもあるが、それは難発から派生した連発様の発音だと思う。
ただし難発自体が軽くなっているので、そう力んだ発音ではないと思う。
親しい人と話す時は発話運動イメージを明確にせずにラフに話すから吃音がでやすい、と私は解釈している。

私の吃音は多くの吃音者とは逆と思われるかも知れない。
世の中には緊張するから吃るという見方が多い。
しかし私の経験ではそうではない。
昔、急に壇上に呼ばれて多くの聴衆を前に話したことがあるが、私はかなり緊張したものの、発話運動イメージを明確にしてゆっくりめに話し、まったく吃らずに話した。
緊張がどうのという問題ではなく、明確な発話運動イメージを見失うことが問題なのだと思う。
緊張しないようにするというのはあいまいであって、あいまいな目標をたてるのは効果的とは思わない。
緊張してもよいから明確な発話運動イメージをもつことこそが肝心であり、この方が目標として具体的である。
目標は具体的であるべきだ。
心理を問題にする人は吃音を具体的にとらえていないのではないかと私は思っている。

ところで、先日、団地の会議の録音を聴いたら、ちょっと驚いた。
私は結構吃っている!
難発だ。
話す時に少し間が空く。
会議での発言は慣れているので、あまり緊張していなかったと思うが。
そしてふと思った、吃音が軽微で、吃音を気にしない人は、自分の吃音をあまり自覚しないのかも知れない、と。

私は話す時に吃音を意識しない。
吃るなら吃るでもよいと思っているから、吃るのではないかと心配することはなくなる。
私はたんに話す内容を意識しているだけである。

吃音者は吃りやすい言葉を言いやすい言葉に言い換えることがある。
私も昔はそうだった。
それは結構頭を使う作業であり、大変である。
今の私はそういう面倒なことはほとんどしない。
なるべく適切な言葉で話したいから、言い換えはしたくない。
その分、吃音がでやすくなる。
それで構わないと思っている。

私は口が速く動かない。
子供の頃から咀嚼運動がのろく、食事に時間がかかる。
やはり発音に失敗しやすい素因はあるのかも知れない。
私の吃音は完治しないのかも知れない。

それでも、昔に比べたらかなり軽くなった。
吃音で困ってはいない。
昔は外食した時に注文できなかったが、今はできる。
それなりに社会的活動をしているが、それをこなしている。
団地でいろいろなお宅を訪問する時、インタフォンで自分の名前を名乗る。
最初にかすかに間が空くが、明瞭に発音しているはずである。
私は今のままでよいと思っている。
3歳で吃音を発症し、吃音が完治しないまま生涯を閉じる、でよいと思っている。

現状では、吃音にかかわる動機はうすれている。
しかし「吃音ノート」は続けたい。
若い頃から吃音の仕組みに関心をもち、それが私の人生を通して根深いものになってしまっているからだ。
しかし私の今の生活では「吃音ノート」の更新が遅くなる。
今の私はじっくり沈潜して考えることがむずかしい。
雑音が入り過ぎる。
私はいろいろな課題をかかえており、焦点が定まらない状態にある。
それは団地の問題もあれば、私の個人的な問題もある。
それらから最優先課題を選び、焦点をしぼりつつ、ひとつひとつ撃破していかなければならないのだろう。
しかしそうなると、「吃音ノート」は少し遠ざかってしまう。

昔、佐藤大和の『単語における音韻継続時間と発声のタイミング』(1977年)という刺激的な論文を読んだことがある。
それを再読したい。
田中真一の『リズム・アクセントの「ゆれ」と音韻・形態構造』も読んでみたい。
一応買ってある。
「小脳と運動失調」という本も読んでみたい。
これも一応買ってある。
小脳失調性構音障害は小脳のどの部位に問題があるのだろう?
小児の吃音を研究したEhud Yairi の論文も読みたい。
広い意味での非流暢性からどのように吃音が発生してくるのかを知りたい。
昔からG. I. AllenとN. Tsukaharaによる『Cerebrocerebellar communication systems』(1974年)という論文にあこがれているが、語学力がないのでむずかしいか?
大脳の運動制御に小脳が加わることで、より精緻で自動的な制御になってくる。
吃音の反射性自動性はそのことと関連しているのだろうか?
また、発話運動の大脳小脳連関はいつ頃から形成されるのだろう?
吃音の発症は発話運動の大脳小脳連関が形成されて以降に起きるのだろうか?
あげていくと、いろいろ出てくる。


私は仏像・仏画を見るのは嫌いでないし、時には宗教音楽も聴く。
一種心を洗う?ような心もちでそれらに接する。
穢れの多い世の中で暮らしていると、時にはそういうひと時をもちたくなる。
私は宗教心は0だが。

昔、FM放送からジョスカン・デ・プレ作曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を録音した。
それは女性合唱だと思ったが、ある人に聞かせたら「ボーイ・ソプラノだ」という。
いわれてみるとそうだ。
それは清冽な声で、女性の声の甘ったるさがない。
その演奏は残念ながらユーチューブにはない。

次の動画にも女性の声は含まれていないと思う。
テンポがゆっくりし過ぎている感もある。
声に少しビブラートがかかっているのは官能的で、私は好きでない。
それでもこの演奏は嫌いでないから、ここに入れる。


Ave verum - Josquin des Prez - i buoni antichi

www.youtube.com

 

渋すぎる曲をもうひとつ。

ジョスカン・デ・プレ - 千々の悲しみ: 演奏 冨田 一樹

www.youtube.com

 

追記

私は記事を公開した後も、ちょくちょく記事を修正します。
大きな変更はありませんが。
面倒なので、履歴は記録しません。