吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

黙読で吃るか?

次のような相談がインターネット上に寄せられている。

私は普段から読書が好きで毎晩本を読んでから眠るのですが、黙読でも何故か吃るのです。
読んでいると、実際に吃音が出る時のように詰まったり、息が苦しくなります。
そのせいでスムーズに読めません。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14295407424?__ysp=5ZCD6Z%2Bz44CA44Gp44KC44KK

黙読で吃ることはあるのだろうか?
私の経験ではない。
これは吃音とは何か?吃音の原因・仕組みはどういうものか?にかかわる問題のように思われる。

私の推測では、吃音とは発話運動のある失敗をきっかけに失敗している運動の状態が自動的かつ瞬時に継続し、次の運動の段階へ進めなくなるものである。
通常の発話には一定の定速性がある。
つまり1モーラの継続時間がほぼ0.15~0.2秒になるように自動制御されている。
吃音のきっかけになる失敗とは、こういう時間軸にそった発話運動にかかわる諸筋肉の組み合わせのタイミングの失敗である、と私は推測している。
より具体的には、母音が出るタイミングの失敗であったり、調音結合を実現するための諸筋肉の動的な組み合わせの失敗である。
脳がそれらを聴覚や筋運動感覚を通じて感知するやいなや、吃音が起きる。
ところで黙読において脳はそれらの失敗を感知するだろうか?
まず、黙読では音声が出ていないのだから、聴覚を通じて失敗を感知することはありえない。
また、黙読はたんに音読から音声を省略しただけのものではないだろう。
黙読では諸筋肉の動きもかなり省略されているから、諸筋肉の組み合わせのタイミングの失敗は起こりえないように思われる。
黙読は音読とは質的に異なったもののように思われる。
私は黙読で吃ることはありえないと思っている。

しかし相談者は黙読で吃り、息が苦しくなると訴えている。
そうだとすると、それは黙読する時、吃っている時の状態が思い出され、それが再現されてしまうということだろうか?
それはむしろ神経症的な状態のように思われるが。

これに似たこととして、吃音者は話す時に吃音を予期すると吃るということがある。
そういうことがあることは私も認めるが、私の考えでは、吃音者は吃音に抗って話す運動イメージをもって話そうとするが、それが諸筋肉の状態を不適切にするが故に吃音が再現されてしまう。
心理学者は恐怖心や不安があるから吃ると解釈し、吃音を回避反応としてとらえるようだが、それは心理学流の主観的解釈である。
身体のレベルで失敗があることが吃音の必須条件であって、心理が直接吃音を引き起こすことはない、と私は考えている。
吃音者の多くは緊張すると吃るという。
緊張しているか否かは容易に自覚できるが、話す時の諸筋肉の状態を自覚しているとは限らない。
緊張しなくても吃る人がいることをきちんと見なければならない。

音読が省略されて、黙読になり、黙読が省略されて内言になる。
内言は心の中の言葉だが、その省略の程度はさまざまだろう。
私は言語なくして思考はないと思っていたが、ヴィゴツキーはその考えを否定している。
言語以前にも思考はあったが、人間においては思考と言語が出会った。
内言が省略されて思考になる、という一方通行で考えてはいけないのだろう。
思考はもっと広大な世界なのだろう。
思考は瞬時にひらめくものだ。
内言は断片的にそれに対応するだけで、おそらく思考の全プロセスに対応するものではないのだろう。
思考はもちろん黙読のようにのろく進むものではないし、思考がおのずから文になる訳ではない。
人間は思考をどのようにして文に展開していくのだろう?
興味がある。

私は「吃音ノート」を気にかけているが、無為無気力の状態にあり、ぼーっとしている。
部屋は片付かないし、読書もしていない。
人に勧められて「どもる体」( 伊藤亜紗著) を読んだが、同意できる部分と同意できない部分?がある。
あいまいさを感じるので再読したいが、億劫で再読していない。
著者は難発を回避反応ととらえている。
私は吃音は身体レベルでの失敗をきっかけに起きると考えている。
難発も失敗をきっかけに起きると考えているから、それは失敗を回避するものではない。
すでに失敗しているから難発が起きる。
発話運動は末尾までなめらかに進展するようにあらかじめ準備してからスタートするフィードフォワード制御的な性質があるから、最初に諸筋肉のバランスを整えることが重要になる。
それに失敗していたら、進めないのは当たり前である。

 

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