吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

吃音は恥ずかしいことか、情けないことか? (2)

吃音者もいろいろで、吃音を極力隠そうとする吃音者もいれば、吃音を隠そうとしない吃音者もいる。
その違いは何によるのだろう?
おそらくその人の人生経緯(吃音をバカにされた経験etc.)、周囲から受け入れられているかどうかの自己評価、人生観、世界観、性格などにもよるだろう。
また、吃音そのものに関する考え方も関係しているだろう。

吃音を恥としない吃音の考え方

まず、吃音に関する私の考え方を書かせていただく。
吃音は正常な話し方ではないという意味では異常である。
だから異常な原因から説明されるべきである、と考えられがちである。
しかしこれは原因-結果に関する単純すぎる考え方であると思う。
私は比ゆ的にいうと吃音は免疫反応のようなもので、それなりに合理的根拠をもっているが、ただその反応によってかえって当人に大きな害を与えてしまう問題である、と考えている。

まず最初に、発話運動の微細な失敗がある。
これは免疫反応でいうと抗原に相当する。
それは微細なので意識にのぼらないが、発話運動を精緻に自動制御している脳の部位はそれを感知する。
その部位は発話運動を構成する各筋運動の組み合わせのタイミングに失敗していないかどうかを約0.15~0.2秒以下の許容範囲で監視している。
何故、約0.15~0.2秒以下といえるかというと、通常の会話には一定の定速性があり、1拍の継続時間がほぼ0.15~0.2秒である。 *1
その1拍を構成する各筋運動のタイミングの許容幅はそれよりもずっと小さいはずだからである。
このタイミングの失敗を許容すると、構音障害になる。
発話運動のスピードに揺らぎが生じたり、発音が不明瞭になるだろう。
この失敗を許容しない場合、発話運動の定速性を守ろうとする脳の部位はどういう反応を起こすだろうか?
その脳の部位は後続すべき運動指令の発射を延期もしくはキャンセルしてしまうのではないか、すると遂行中の運動がそのまま継続されてしまう、それが吃音ではないか、と私は推測する。 *2
従って、吃音は筋運動のタイミングの失敗を感知した脳の部位が失敗に対する対策として引き起こしているものであり、その意味では合理的根拠がある、と考える。
しかし結果的にはかえって大ごとになってしまう。
これはもっと説明が必要だと思うが、基本的にはこれが吃音に関する私の考え方である。
吃音は脳の自動制御の問題だと考える。

発話運動はそもそも各筋運動の協調のタイミングの精度を要するむずかしい運動である。
しかし私たちは脳の自動制御の助けを借りているので、むずかしさを意識することなく発話できている。
発話は簡単なことだと思っている。
しかし実際はタイミングの精度を要するむずかしい運動であるから、それに失敗する人が一定数いてもおかしくない。
それは微細な失敗に過ぎないが、その失敗に対する脳の自動制御的な反応がことを大きくしてしまう。
こういう問題に過ぎないと見ているので、吃音を恥じる必要はない、と私は考えている。
吃音を恥じるのは愚かごとだし、吃音を恥じて自分で自分を責め、人生を損なうのは、さらなる愚かごとだと考えている。

吃音を恥とする吃音の考え方

一方、世の中には吃音に関する別の考え方があって、それがほぼ通念化しているように思われる。
それは、緊張するから吃る、あわてるから吃る、気が小さいから吃る、自分に自信がないから吃る、という考え方だ。
吃音は吃音者の性格的人間的な弱さに由来するものという考え方である。
しかし吃音があれば、おそらくほとんどの人は会話において緊張しやすくなるし、自分に自信がもてなくなるだろう。
吃音の結果、そうなるだろう。
吃音の原因と結果を混同してはならないのだが、その見極めは吃音を経験していない人にはむずかしいのだろう。

吃音は性格的人間的な弱さに由来すると考えるならば、確かに吃音は恥ずかしいものになる。
そういう考え方をするならば、吃音を隠そうとして消極的になるだろうし、劣等感によってさらに自分を追い込んでしまうこともありうるだろう。
ところが、私は吃音はそのような原因で起きるものではないと考えており、従って吃音は恥ずかしいという感情をもたない。
考え方の違いで感情が違ってくる。

予期闘争仮説

吃音は異常だから異常な原因で説明できるという短絡的な考えは世間に通念として広がっているだけでない。
心理学を信奉する研究者にもあるように思われる。
彼らは吃る恐怖や不安という一種の異常な感情で吃音を説明しようとしているように私には見える。
たとえば予期闘争仮説がある。
それは吃音者は吃ることを予期して不安や怖れを感じ、その予期と抗争することで吃るという説である。
確かに、吃音者は吃音を予期すると吃りやすくなるのは事実である。
しかし吃音を予期する時、私自身は不安といえるほどのものを感じていない。
私は吃っても気にしないから、不安といえるほどのものは感じない。
だから吃音の予期は感情の問題ではないと考える。
吃音の予期はむしろ運動イメージの問題だと考える。
運動イメージはあまり意識されないが、発話運動にさいして諸筋肉をととのえる役割をもっているだろう。
どういう運動イメージをもって運動をスタートさせるかということは重要ではないか?
吃音者は吃音を予期する時、話す運動イメージが吃りに抗いながら話そうともがく運動イメージと重なってしまうから、再び吃りを再現してしまうのではないだろうか?

筋肉の制御をつかさどる脳の部位は運動イメージに導かれた諸筋肉の状態を感知し、それに応じて運動指令を調整するだろう。
だから私は運動イメージを重視する。

考える手順という観点でいうと、私は吃音は筋運動の制御系で起きている問題と考えるから、制御系に即して考えることを優先する。
感情や緊張のような漠然とした概念で考えない。
とはいっても、感情や緊張が筋運動の制御系に影響を及ぼすことはありうる。
しかし筋運動の制御系に即して説明する努力を怠り、いきなり感情や緊張で説明するやり方は支持できない。

吃音を恐怖や不安で説明するのであれば、吃音者は自分を情けないと思っても不思議ではない。
そして本当に恐怖や不安を感じるようになるのではないだろうか?
考え方は感情を生み出す。
心理学的な説は一見学問的な体裁をとりながら、世の中の通念に従っているだけではないだろうか?
そして結果的に吃音者に恐怖や不安を与えているのではないだろうか?
こと吃音研究に関して、率直にいうと、心理学は学問の名に値するかという疑問を私はもっている。
それはあまりに無防備に主観的解釈を混入させていないだろうか?

感情の背後に考え方があること

痛みのような感覚は一次的で、ほぼ誰にも共通する。
しかし感情はもっと複雑で、その背後に考え方が含まれていることがある。
人は正しく考えることもあるし、誤って考えることもある。
だからうつ病などの感情障害の治療に認知療法が適用されることがある。
認知療法は感情の背後にある考え方の歪みを正すことで感情障害を治療しようとする。
人間は理性があるのだから、否定的な感情の奴隷になるのではなく、その感情の背後にある考え方にメスを入れ、誤りや歪みをただし、理にかなった感情をもつべきではないだろうか。

(3)へ続く

*1 
拍という言葉はモーラという言葉の代わりに使われることがある。
私は一般になじみの薄いモーラという言葉を使わずに、拍という言葉を使っている。
モーラは日本語のリズムの基本的な単位で、その継続時間はほぼ一定である。
俳句の5・7・5はモーラを数えている。
定義によることだと思うが、モーラと音節は一致するところもあるが、一致しないところもある。
たとえば「まってくれ そうあわてるな 棺桶よ」という川柳?において、「まっ」は1音節だが、2モーラとして数えられる。
参照:https://nihongokyoiku-shiken.com/japanese-beat-mora/

*2
吃音を直接的に引き起こす脳の部位は、発話運動の遂行に直接的にかかわっており、ある程度パッケージ化された運動指令の切り替えを高速で行っている、と推測する。
この部位は運動指令A、Bの切り替えの制御、いい換えるとA、Bの継続時間の制御を専門に高速で行っているので、発話運動の停止には関与しないし、パッケージ化された運動指令内部の編集も行わない、と推測する。
一方、発話運動停止の判断は大脳が行うと思われるが、それは一定の時間を要するだろう。
ところが発話運動の遂行に直接かかわっている脳の部位は高速で働いているので、大脳の判断を待つことなく、運動指令の切り替えの制御を実行してしまう。
すなわち運動指令Aの結果から失敗を判断し、運動指令Bへの切り替えを延期またはキャンセルすると、遂行中の運動指令Aが継続発射されてしまう。
それが吃音である、と推測する。
これは事象関連電位による脳の研究からも推測したことだが、もっと勉強してから書きたいと思っている。
参照:https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E4%BA%8B%E8%B1%A1%E9%96%A2%E9%80%A3%E9%9B%BB%E4%BD%8D