吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

調音結合と吃音について 

発話運動がなめらかに進むのは調音結合があるからである。
調音結合に失敗すると今の音から次の音へなめらかに進みづらくなる。
一方、私の考え方では、吃音は発話運動のある部分から次の部分へ進めなくなる発話障害である。
調音結合と吃音の関係についてちょっと考えてみる。

調音結合とは

調音結合は、複数の音が連なっている言葉を話す時、それぞれの音を発する運動が、先行した音を発する運動の一部あるいは後続する音を発する運動の一部と併存しながら推移すること、従ってその音には前後の音の影響が音響学的にも認められることをいう。
先行音を発した運動の一部を残存させたまま今の音を発する場合、これを持続的調音結合という。
後続音を発する運動の一部を併存させながら今の音を発する場合、これを予測的調音結合という。
「ありがとう」と言う時、「あ」を言い終わってから、次の「り」を言う運動を始めるのではなく、「あ」を言っている最中に、次の「り」を言う運動の一部を遂行している。
これは予測的調音結合の例である。

ここで、より詳しく見るために、「ことばの科学入門」(MRCメディカル リサーチ センター。1984年第1版)から、引用させていただく。*

“厳密に調音結合を定義すると、2つの発音器官がそれぞれ別の音をつくるために同時に活動する現象をさすものということができる。” (125ページ)
“調音結合の例をあげると、“two” ( [ tu ] )という時舌が[ t ]の音をつくると同時に唇が[ u ]のための丸みをつくっている状態をさす。”  (126ページ)
“エーマンはスペクトログラムからみると、舌そのものが、舌先と舌体(または舌背)と舌根の3つの別々の器官に分けて考えられるのではないかと述べている。この考え方は、ボーデンとゲイのX線映画による研究である程度裏づけられている。このX線映画では、/ t / + / a / の連続で舌先が / t / のため上にもち上がるのと同時に舌背は / a / のために下がり始めることが観察された。”  (126ページ)
“実際に話している時には、調音結合や適応現象が次々に拡がっていくことになる。これは、ことばの生成面でも知覚面でも、いわゆる並列処理が起こっていることを意味するもので、ことばの伝達を促進し、情報処理を効果的にする要素であると考えられる。” (126ページ)
“彼(エーマン)の考えでは、最初の母音から次の母音に移行する時、子音の要素がこれに重なっていく結果、時間的な順序設定が進行していくとみなしている。”  (142ページ)
“ヘンケは、構音運動に関するデータをもとにして計算機モデルを提案した。このモデルは、運動制御における前向きスキャン型の機構をもっている。つまり、運動指令が出される場合、まず前方をスキャンしてその指令の性質に反するような音が先のほうにない場合には、音の数に関係なく早く指令が出されるというもので、たとえば唇の突き出しの指令はそれより先のほうに唇の横開きをともなうような音がなければ、かなり早くから出ていると考えるものである。”  (142ページ)

*「ことばの科学入門」(Gloria J. Borden ,Kathrine S .Harris著 。廣瀬肇訳。MRCメディカル リサーチ センター。1984年 第1版)。

調音結合の失敗は吃音か?

調音結合に失敗すると、今の音から次の音へなめらかに進みづらくなる。
吃音は今の運動部分から次の運動部分へ移行できない発話障害だから、吃音は調音結合の失敗と関係しているのではないかという疑問が生まれる。
私の考え方では、吃音は発話運動のある失敗をきっかけに、失敗した運動部分が継続するものである。
従って、調音結合の失敗 = 吃音ではない。
何故なら、調音結合に失敗するとなめらかさが損なわれるが、それは必ずしも失敗した運動部分が継続するということではないからである。
が、調音結合の失敗は吃音のきっかけのひとつになっているのではないか、と私は思っている。

発話運動は音を発する以前から始まっている

調音結合の観点では、「ありがとう」をいう時、語頭の「あ」をいう運動イメージで発話を開始するのではないことが了解されると思う。
語頭の「あ」をいう運動イメージをもつことは、調音結合でつながっている「ありがとう」から分離された単独の「あ」をイメージすることである。
吃音者はとかく語頭の音を意識するが、それは調音結合を破壊する運動イメージをもつことを意味している。

発話の運動イメージは発話運動にかかわる諸筋肉の状態をととのえる役割をもっている、と私は思う。
意識するから吃る、無意識に話すべきだという人がいるが、それは正しくないだろう。人は無意識に話す訳ではない。
人は発話の運動イメージをもって話すのだが、それは調音結合でつながった「ありがとう」全体のイメージである。
これを分析的に捉えると、調音結合は壊れてしまう。
吃音者は分析的すぎるのかも知れない。

「ありがとう」をいう直前の諸筋肉の状態は筋運動感覚を通じて瞬時に脳に伝わるだろう。
「ありがとう」をいう運動は「ありがとう」をいう以前にすでに始まっている。
「ありがとう」をいう直前の諸筋肉の状態が調音結合から分離された単独の「あ」をいう状態である時、脳はそれを感知し、失敗と見なすのではないか?
そして次の運動指令の発射をキャンセルまたは延期するのではないか?
それが発話運動を構成している個々の運動指令の発射の切り替えのタイミングを制御している脳の部位によっておこなわれているのであれば、それは発話全体の停止にはつながらず、現在の諸筋肉の状態を引き起こす運動指令の継続発射につながる?
これが難発ではないか?
こう考えると、連発も伸発も難発も同じ原理で説明できる。
吃音者はとかく語頭の音を意識するが、私の体験では、この時に難発になりやすい。

発話運動のフィードフォワード制御

「ありがとう」をいう直前の諸筋肉の状態を脳は鋭敏に感知し、過剰なまでに反応する。
それは何故か。
それは発話運動は基本的にはフィードフォワード的に制御される運動だからではないか、と私は思っている。
そもそも発話運動は脳が誤差を感知した時点で誤差のある音が出てしまっているので、フィードバック制御に適さないのではないか。
たとえばミサイルが標的に向かっていく場合、その軌道にはある程度の自由さがある。
結果的に標的にぶつかりさえすればよい。
この場合はフィードバック制御が利くだろう。
しかし軌道そのものが定められていて自由さがない場合、フィードバック制御は無理だろう。
発話運動では軌道の歪みは発音の歪みとしてすぐに出てしまうので、フィードバック制御は適さない。
このことは注意されていないようだが、軽視してはならないと思う。
こういう運動は一般的にはフィードフォワード的に制御されることが知られている。
フィードフォワード制御とはあらかじめ誤差を見込んで制御するやり方であるが、発話運動の場合でいうと、音を発する運動が調音結合によって変形を被ることをあらかじめ見越し、「ありがとう」が末尾にいたるまで調音結合で融合しながらなめらかに進行するようなプログラムを組み、そのように制御するということだろう。
従って、最初が重要になる。
最初に末尾までなめらかに進行するように諸筋肉を微妙にととのえてから、「ありがとう」をいう。
発話運動は最初がもっとも微妙でむずかしいのかも知れない。
吃音が話す直前や語頭で起きやすいのはそのことと関係しているのかも知れない。

聴覚と筋運動感覚のズレ?

「ありがとう」をいう場合、「あ」をいっている最中に次の「り」をいう運動を開始していると先に書いた。
これは聴覚のレベルでは「あ」を知覚しているが、筋運動感覚のレベルでは「あ」と「り」の運動が共存しながら進行しているということだろうか?
ということは、聴覚と筋運動感覚の間にはズレがあるのだろうか?
吃音者はこのズレに過敏すぎるのだろうか?
ズレを許さないのであれば、調音結合を壊さなければならない。
また、調音結合のことは措くとして、ある音を出すための筋運動を開始してすぐに音がでる訳ではない。
音は筋運動の開始より遅れて出る。
母音を出す場合でもそうだろう。
つまり筋運動感覚と聴覚との間にはある意味でズレがあるのではないだろうか?
吃音者はこのズレに過敏なのだろうか?