吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

吃音の汎化について、および伸発について (1)

汎化とは

Weblio辞書によると、般化/汎化とは、
“心理学で、一定の条件反射が形成されると、最初の条件刺激と類似の刺激によっても同じ反応が生じる現象(刺激般化)。これに対して、同一の刺激がさまざまな反応を引き起こすときを反応般化という”
https://www.weblio.jp/content/%E8%88%AC%E5%8C%96

吃音の汎化という言葉は聞き慣れないが、ここでは吃りやすい音・言葉の種類が増えて
いく現象をさしていうことにしたい。
私は記憶が定かでないが、最初は無声破裂音(カ行、タ行)で吃ったように思う。
それから母音でも吃るようになったように思う。
その後、無声摩擦音(サ行、ハ行)でも吃るようになった。
こういう汎化は何故起きるのだろう?

なお、上の引用では条件反射という言葉が出てくるが、私は吃音は条件反射によって起きるとは考えない。
吃音は発話運動の微細なミスに対して発話運動を制御している正常な部位が通常の機能で引き起こすものであって、新たな条件反射の回路が形成されて起きるものではないと考える。
というか、そういう新たな回路を仮定する必要はないと考える。

母音がでるタイミングに過敏になること

吃音の汎化は私においてどのように進展したかについて、推測を書く。
私の無声破裂音の連発では、以前の記事「連発について (2) - 吃音ノート」において、声門を軽く閉じて気流で声帯を振動させるべき時に声門を開きっぱなしにしているため声帯が振動しない、従って母音がでるべき時にでない、このタイミングのミスが連発のきっかけになっている、という趣旨のことを書いた。
記憶は定かでないが、私は母音がでるべき時にでないというタイミングのミスに対して非常に過敏になったように思う。
そして母音でも吃るようになり、これは難発という形になった。

母音がでるべき時にでるか否かということは、発話運動のある局所、ある1点に注意を払うということである。
先の記事「調音結合と吃音」では、発話運動は本来は調音結合で全体が相互に融合しあっているものだから、そういう全体的運動イメージを基盤にして話すべきだという趣旨のことを書いた。
しかし母音がでるか否かという局所、1点に注意を払うということは、本来のあるべき運動イメージとは真逆の運動イメージをもつことになるのではないだろうか。
そういう不適切な運動イメージで話すと、発話の流暢性が微妙に損なわれるのではないだろうか。
それ故、それに対する反応である吃音が汎化していくのではないだろうか。

調音結合で融合しあった全体的な運動イメージを基盤にすると、各音は全体から規定されるという側面がでてくる?
全体が部分を規定することで部分がより明確になる?
こういう考えが湧いてくるが、これは漠然としすぎているので、これ以上書かない。

ささやき声では吃らない

ささやき声で話すと吃らないといわれている。
実際、私の体験でもそうである。
これは何故だろう?
ささやき声とは母音が無声化されている声である。
従ってささやき声で話す時は適正なタイミングで母音がでるか否かということに注意を払う必要はない。
そのタイミングの失敗を判定する必要はない。
こういう声で話すと吃らないというのは、興味深い。

吃音が悪化・汎化した分については改善できるか?

吃音の結果、発話運動イメージが不適切なものに変容し、それで発話の流暢性が微妙に損なわれていく。
そのために吃音がいっそう悪化し、汎化していくということがあるのではないか、と私は思っている。
とすると、発話運動イメージを本来の適正なものに戻し、それを定着させ、発話の流暢性を回復するならば、少なくとも吃音が悪化・汎化した分については改善できるのかも知れない。