吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

「吃音ノート」に つ い て

私はこのブログで吃音について考えていきたい。
吃音とは直接関係のないことでも、吃音を考えるさいに興味をもったことについては、備忘録的に記していきたい。

私は3歳頃に吃音を発症し、それなりに苦労してきた。
今は高齢者で、比較的平穏に暮らしている。
吃音は驚くほど軽くなり、吃音による束縛を感じない。
そういう私が「吃音ノート」を書く理由について書いておきたい。

吃音の原因や仕組みはまだわかっていない。
吃音は心因やストレスで起きるという見方が多いようだが、私はそう考えていない。
吃音は誤解の多い問題だと思っている。

私もかつては苦しんだから、吃音についていろいろ考え、仮説めいたものをもつようになった。
しかしそれは周囲から無視され、妄想と見られたようだ。

発話運動の細部を自動制御する脳の部位が運動の微細なミスを感知した時に自動制御的に引き起こすものが吃音である、と私は妄想する。
しかも脳のその部位は正常(もしくはやや過敏)であり、その通常の機能の延長線上で吃音を引き起こす、と。
吃音とは、現在遂行している運動の継続、つまりその運動指令の継続発射であって、それ以上ではない。
吃音本体はこういう単純なものだと妄想するが、では、それを引き起こす脳の正常な部位の通常の機能とは何か?
それは発話内の各運動部分の切り替えのタイミングを自動制御する機能ではないか?
発話運動がA→Bと推移する場合、タイミング制御機構はAの微細なミスを感知するとBへの切り替えを延期(もしくはキャンセル)する。
すると発話行為が停止するのではなく、運動部分Aが自動的に継続する。
タイミング制御機構は発話音声の単位である拍の継続時間がほぼ0.15~0.2秒になるように自動制御していると推測されるが、この敏速に働く機構は「A or B 」のような単純な切り替えスイッチの仕組みを備えているのではないか、と妄想される。
さらに妄想を延長すると、その部位は小脳にあるかも知れない。

吃音本体は現在の運動の継続にすぎないが、吃音者はその継続から脱却しようとして無理に力んで話そうとする。
すると声門の強い閉鎖などの混乱した状態が起きるが、これは吃音から派生する2次的な現象ではないか?
吃音本体とそれから派生する2次的な現象がすぐに連結して起きると、この両者を分離してとらえる視点はもちにくい。
吃音者も吃音本体よりは2次的な現象を強く意識するかも知れない。
しかしこの両者をごっちゃに捉えると、吃音は複雑怪奇なものに見える。
そして迷路に引き込まれるのかも知れない。

吃音は正常な発話運動の仕組みが解明されるとともに明らかになっていく、と妄想する。
吃音は正常な発話運動の仕組みを覗く一種の窓のようなものではないか?
吃音を考えることはおもしろいと思う。

私はすでに晩年に入っているが、世に出まわっている吃音の諸説に同意しないまま何も語らずに世を去ってよいのかという自問がある。
妄想と笑われてもよいから、思うところを吐き出し、すっきりしてはどうかという気持ちがある。
晩年は、今までのこと(吃音のことに限らず)を再考し、整理したいという思いもある。

実は9年ほど前、私は「吃音ノート」を立ち上げているが、挫折している。
今回は2度目の挑戦である。
以前より仕事を減らしたが、まだ働いている。
地域でもしていることがある。
書きつづけるにはもっと勉強が必要だ。
無理のない程度にゆっくり書きつづけていけたらよいと思っている。