吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

吃音は恥ずかしいことか、情けないことか?(1)

吃る子をバカにした先生

中学生の頃、私のクラスに誰とも話さない子がいた。
仮に名前をT君とする。
T君は誰からも相手にされず、孤立していた。
身なりはかなりみすぼらしかった。
相当に貧しい家庭の子のように思われた。
風貌は少し知的障害があるように見えた。
私がT君のことをはっきり覚えているのは、ある衝撃的な出来事があったからだ。
それは数学の時間のことだ。
先生がある問題を出し、T君を指名した。
T君は答えられなかった。
それで先生はT君に「1から10までの数字を書いて見ろ。それを読め」といった。
T君は黒板に数字を書いた。
先生は「それを読んでみろ!お前、それも読めないのか!」といった。
T君はぼそぼそと聴き取りにくい声で数字を読んだが、吃った。
すると先生は「おい、お前は吃りか。吃り!、吃り!」と大声でいった。
その「吃り!」といういい方には明らかに嘲笑いの感情が入っていた。
あまりのことに生徒たちは静まり返った。
授業が終わってから、私はT君のところに行き、「T君は吃るの?僕も吃るよ」といった。
T君は返事せずにぷいと教室を出ていった。
その後も、T君は私を避ける風だったので、私はT君に近づかなくなった。
T君はおそらく年少の頃から誰にも相手にされずに成長してきたのではないだろうか。
人とかかわることに不快感しか感じられないような成長の仕方をしてきたのではないだろうか。
それにしてもあの「吃り!」という蔑みのあるいい方は60年近く経った今でもはっきり覚えている。
その数学の先生は名前を佐久間といった。

吃音は恥ずかしいという考え方は世間にひろく存在する

テレビ?ユーチューブ?で見たことだが、ある若者がほんの少し吃ったことがあった。
ふだんは普通に話しており、吃音者ではないのだが、その時はたまたま吃ったらしい。
私から見ると、それは軽い連発(たとえば、「ぼ、ぼくは」)であって、気にするほどのことではない。
しかし彼はそれを非常に照れ、大いに弁解した。
周囲も笑った。
これを見て、吃音を恥ずかしく思う人たちは世間にたくさんいて、しかもそれは吃音者に限らないのではないかと思った。
吃音は恥ずかしいという考えは世間にひろく存在するのではないかと思った。
だから、吃る子をバカにしたり、いじめたりすることが起きるのではないか?

吃音によって自分を抑圧し、人生を損なう、それでよいのか?

吃音者の多くも吃音は恥ずかしいと思っているだろう。
吃音を隠すために消極的にふるまい、自己抑圧的な人生を送る吃音者は少なくないだろう。

小学生の頃、私は音読で吃っても気にしなかった。
私が吃ると、くすくすと笑う声が聞こえたが、それは馬鹿にした笑いではないので、むしろ笑いをとったという気持ちでいた。
自ら挙手して発言することもあったし、壇上にたって問題の答えを説明することもあった。
私は吃りを気にしなかった。
それは何故かというと、自分はクラスで受け入れられていると感じていたからだろう。
しかしある時、役員に選ばれ、壇上でひとことも発しえず、悔しくて涙を流したことがあった。
しかも学校全体の役員にも選ばれ、そこでも立ち往生してしまった。
そういう自分を情けないと思った。
恥ずかしいというより、情けないと思った。
それからは役員に選ばれることを怖れ、ひたすら勉強を避け、成績を下げていった。
もともとは勉強 (とくに理科) はおもしろいと思っていたが、そういう自分を完全に抑圧してしまった。
これが中学、高校とつづいたから、いわば落ちこぼれ同然となり、その後は惨憺たる年月を送った。

とくに若い吃音者は自分を抑圧しないでほしい、と私は思っている。
吃音はひとつのハンディだから、世間で生きていくためにはむしろ人一倍自分を伸ばしてほしい、と思っている。
そこで壁になるのは、吃音は恥ずかしいという感情・考えである。
これがあると、吃音を隠そうとするから、とかく消極的自己抑圧的になりがちである。
吃音は恥ずかしい、情けないという感情・考えは当たり前だろうか?
この感情・考えは正当なのかどうかを深く掘り下げて考えてみなければならない、と私は思う。

追記
(2)を書くにあたり、(1)を書き直した。
内容に変更はない。