吃音ノート

吃音および関連分野について考えます

吃音に関する誤解について

吃音の原因や仕組みはまだわかっていない。
科学が進んだ現代においてなお謎のままである。
それにはそれ相応の理由があると思う。
ひとつは言語活動は動物実験では解明できない。
今の医学の進歩は動物実験に負うところが大きい。
もうひとつは吃音特有の問題だが、症状が時と場合によって出たり出なかったりする不確定性の問題がある。
こういう条件では必ず吃音が起きるとはいいにくい。
これでは科学的な研究がしづらい。
いかに条件を絞って反応を確定的に取り出すか、という課題があると思う。

一方、世の中には吃音のことがわかっているつもりの人が少なくないように思われる。
私は酒を飲むと吃音が悪化するが、それをある人に話したら、「そんな馬鹿な、そんなことはない!」と強く反論してきたことがある。
ことは私が体験している吃音の話しなのだが、吃音者でないその人は「そんなことはない」と鼻から否定する。
彼は吃音のことがわかっているつもりらしい。
吃音の原因については、あわてているから、緊張するから、気が小さいから、自分に自信がないから、というような精神あるいは性格によるものとする考え方が広くいきわたっているように思われる。
吃音のことがわかっているつもりで、吃音者に説教する人もいる。
吃音は言語障害のひとつだが、上記のような対応を受けることがあるという点では、特異な言語障害だと思う。

特定の性格が吃音に結びつくとする考えは吃音研究者が否定している。
多くの吃音者を観察した結果、否定している。
ただ吃音によって性格や行動パターンが影響を受けることはありうるし、自信を失うこともありうるだろう。
結果と原因を取り違えてはいけない。
私はあわてていなくても吃る。
また、緊張していなくても吃る。
昔、急に舞台に呼び出されて大勢の聴衆の前で話したことがあるが、不思議なことにまったく吃らなかった。
緊張すれば吃るとは一概にいえない。
吃音者には、初対面の人には吃らないが、親しい人と打ち解けて話す時にひどく吃るというタイプもいる。
吃音を統一的に捉えるのは簡単ではない。

吃音があると、日常生活や就職に支障をきたすことがある。
吃音は重症になると一音も発せなくなる場合がある。
昔、私は筆談したことがある。
思うように話せなければ生活に支障をきたすことは、想像に難くないだろう。
就職できなければ、死活問題になる。
吃音なんか気にするな、という人もいる。
その人は善意で励ましてくれているのだが、実は吃音者の現実を理解していないのではないかと思う。
吃音者は現実的な問題をかかえて大なり小なり苦労しているが、その上に、吃音のことがわかっているつもりの人から見下されたり、説教されたりしたら、これはかなわない。
吃音者の苦しさは誤解や無理解によって増幅されていると思う。
また吃音者自身が自分をふがいないと思って自分を責めるのも、私にいわせると、吃音に関する誤解によることである。

吃音者の9割以上は幼少期の脳の発達過程で発症している。
また、吃音者では発話をプログラミングする脳の領域のニューロン数が少ないことが観察されている。
脳のことはまだまだ分かっていないことが多い。

吃音のことはまだよくわかっていない。
これが現状では吃音に対する正しい理解の仕方だと思う。
わかっていないことをわかったつもりになってはいけない。

余計事かも知れないが、少し補足的に書きたい。
吃音は時と場合によって症状が出たり出なかったりする不確定性があるが、これは心因で説明できるという人がいるかも知れない。
肉体に原因があるなら、吃音はもっと恒常的なはずだ、と。
しかし吃音を直接的に引き起こす脳の部位に欠陥があるとは限らない。
脳の正常な部位が非常に微細な信号に対して反応して吃音を引き起こしているのかも知れない。
敏感すぎるフィードバック制御は微細な信号に反応し、それがまた信号となって悪循環的に反応を拡大して制御不能に陥るという制御論的な説明も可能かも知れない。
あるいは、脳神経のような複雑系では反応を予測しづらいという説明も可能かも知れない。
結果を予測しづらい物質現象は現に存在しており、それはカオス理論で研究されている。
私たちが実際に見ている自然界は変化に富んでおり、恒常的ではない。
肉体や物質界を単純な機械論的なイメージで捉えるのは、現実を直視しない態度だと思う。
肉体や自然界に謙虚に具体的に学ぼうとせず、抽象的イメージで吃音を説明しようとするやり方はもうとっくに行き詰っていると思う。